みなさんこんにちは。前回からの続きです。
府内への自粛要請が解除されたら、いちばん行きたかった大阪城を散策した、先日の様子をお送りしています。
中心部に「大阪城天守閣」。そのまわりには、深い緑であふれる「大阪城公園」を散策しています。
都心にありながら、自然豊かなこの公園は、大阪市内の貴重なオアシスとして人気を博しています。
さて、前回の記事でも触れましたが…西日本最大の都市・大阪という土地柄もあり、この広大な大阪城の敷地には明治に入ってから、旧日本陸軍の重要な施設が設けられるに至りました。「大阪城」について触れる上では、避けては通れない歴史です。
「Wikipedia #大阪砲兵工廠」より。ピンク色の場所が「砲兵工廠」の敷地に当たる。
大阪城のすぐ南東側には「旧陸軍第四師団司令部(→後に大阪市立博物館→ミライザ大阪城)」も設置されていた。
1870(明治3)年、当時の兵部省(→ひょうぶしょう。後の陸軍省)により「大阪造兵司(おおさかぞうへいし)」という施設が建設されたのを皮切りに、関連の施設が次々と増設され、「大阪砲兵工廠(おおさかほうへいこうしょう)」という名称となり、広く知られるものとなりました。
その敷地は広大なもので、大阪城の東側、現在の「大阪ビジネスパーク」や「大阪城公園駅」、「森ノ宮駅」や「JR森ノ宮電車区」あたりまで至るもので、大砲や火砲、戦車などを主に生産する「アジア最大級の兵器工場」と称されるものでした。
先の戦争中では、城内への民間人の立ち入りが禁止されるなど、厳重な警備体制が敷かれます。さらに戦況が悪化し、米軍による日本本土への空襲が激化するに連れて、この砲兵工廠は米軍による重要な爆撃対象として、激しい空襲が行われるに至りました。
敷地内を走っていた「城東線(じょうとうせん。現在の大阪環状線)」も、この区間だけは地平を走る構造にされました。
建設時から高架線構造を多用していた現在の環状線ですが、この区間も高架にすると、兵器工場内の様子が丸見えになってしまうから…という事情があったようです。その名残で、現在もこの区間は地平のままになっています。
大阪城公園駅(大阪市中央区)にて。
ところで、ここは「京橋駅(きょうばしえき、同都島区)」。大阪城・大阪城公園への最寄り駅のひとつでもあります。
京阪電車・OsakaMetroの駅もあり、たくさんの乗客でにぎわっているのですが、やって来たのはそれらとは真逆の「南口」です。
その南口を出て右へ折れ、環状線のガードをくぐる手前のところに、大阪では有名なこの慰霊碑があります。
終戦前日の昭和20(1945)年8月14日、その「大阪砲兵工廠」を標的にした大規模な空襲があり、工場は壊滅的な被害を受けました。
その流れ弾がこの「京橋駅」を直撃し「城東線(現在のJR大阪環状線)」の高架ホームやガードを突き抜け、真下の「片町線(かたまちせん、現在のJR学研都市線)」ホームへ逃れていた乗客が爆発に巻き込まれ、多数の人々が犠牲になりました。「京橋空襲」とも呼ばれます。
終戦前日の「大阪大空襲」から今年で75年、現在の「学研都市線 京橋駅」ホームの様子を見てみます。
地平の「学研都市線」ホームに対し、その真上には「大阪環状線」のホーム、そして上下線のガードが設けられています。
擁壁は当時のままで、白く上塗りはされてはいるものの、年代物だということが一目でわかるものだと感じます。
このガードを突き破って、大型の1トン爆弾が炸裂した…考えただけでも、ぞっとするものです。
「Wikipedia#大阪大空襲」より。終戦翌年の同駅周辺の様子。
詳細な撮影場所はわからないのですが、地平を走っているのは当時の「片町線」。一面、焼け野が原です。
終戦記念日の前日、先ほどの慰霊碑の前で行われる法要の様子は、大阪ではどの放送局でもニュースで報道されるものですが、この緑に覆われた大阪城公園周辺でそのような悲惨なことが実際にあった…毎年、その法要の様子を拝見していますと、胸が詰まる思いがします。
戦争を直接経験した世代ではもちろんありませんが、平和で穏やかな日常というものを享受しているということは、実に尊いことなのだ…と、毎年感じる瞬間です。
次回に続きます。
今日はこんなところです。