みなさんこんにちは。前回からの続きです。
「寺社仏閣と御朱印を巡る」と題して、先月末に「野崎観音慈眼寺(のざきかんのん じげんじ)」を訪れた際の様子をお送りしています。
さて、観音堂の裏手を散策してみることにします。さっそく立派な鐘楼が鎮座していました。
撞木は、まさに木そのものという…
なかなか、迫力があります。
その先はさらに緑濃くなって来ます。
ここが「飯盛山(いいもりやま)」の入口になっていました。
ハイキングコースは、先ほど降り立った「JR野崎駅(大阪府大東市)」が起点。
山裾にあるこの「野崎観音慈眼寺」を経て…
いま居る観音堂の裏手から、山は深くなり、本格的なハイキングコースへと変わります。
大阪・奈良を分かつ「生駒山系(いこまさんんけい)」の北端に当たるところで、標高314メートルの「飯盛山」を縦走します。
わたしも小学生の頃、遠足か何かでハイキングしたことがあるのですが、大変自然豊かで心地良かったのをよく覚えています。
軍事・政治的に重要だった「畿内(現在の近畿地方の中央部に相当)」での拠点として、古くから山城が建設され、数多くの合戦の舞台にもなりました。
ここに築かれた「飯盛城」には、解説にもある「三好長慶(みよし・ながよし、1522-1564。戦国時代の武将。足利将軍を退け、畿内一帯を支配した人物)」が入城するなど、時の有力者にとっては重要な拠点だったようです。
そして、山の北端には「四條畷神社(しじょうなわてじんじゃ、同四條畷市)」というお社があります。
祀神は「楠木正行(くすのき・まさつら、?-1348。南北朝時代の武将。父の楠木正成とともに、対立する北朝側と交戦し戦死。明治以降は「天皇に尽くした忠臣」として『小楠公=しょうなんこう=』と称えられる) 」で、広く尊崇された人物で、「国家神道」の推進のひとつとして、明治に入ってから創建されました。
そちらへは、この後にお参りしましたので「南北朝時代」の経緯も含めまして、詳しくはまた後日の項で…
ところで、いま訪れている「野崎観音慈眼寺」をはじめ、明治以降の「国家神道」の推進で、先ほど触れた「四條畷神社」に参拝する人々が急増したと言います。
その付近を、大阪市内から結んでいるのが「JR学研都市線」という路線です。
毎度おなじみ「Wikipedia#学研都市線」には…
片町駅(平成9年3月に廃止。現在の起点、京橋駅の隣駅でターミナル駅だった。大阪市都島区) - 四条畷駅間は、浪速鉄道(なにわてつどう)が生駒山地北部の飯盛山西麓にある野崎観音(慈眼寺)・四條畷神社への参詣鉄道として1895年(明治22年)に開業させたもの。
という記載を見つけました。
ちなみに、これを開業させた浪速鉄道は、後に国有化されたのち、路線は昭和62年に「JR西日本」へと変遷しています。
なるほど…現在はまったくの通勤、通学路線と化した「学研都市線」ですが、もともとはこれらの社寺への参拝客輸送が目的だったとは。
鴫野駅(しぎのえき、大阪市城東区)にて。
昭和の末頃までは、明治以降の「片町線(かたまちせん)」の名称で親しまれた路線でした。
この「片町線」の開業で、野崎まいりの屋形船は姿を消してしまい、一帯は一気に宅地化が進み、のどかな風景は一変したと言います。
かように「片町線」には、昭和63年3月に「学研都市線」という愛称が付けられました。
なにげなく利用している路線にも、その由来には実に興味深い経緯や由来があるものだなと感じます。
次回に続きます。
今日はこんなところです。