阪和電気鉄道 昭和初期の面影 その38 「企画展 昭和の一大観光地砂川」と「砂川遊園・砂川奇勝」 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。今日の話題です。

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先日よりシリーズでお送りしています、府の南部「泉南市(せんなんし)」の「埋蔵文化財センター」で開催されている「企画展 昭和の一大観光地砂川(すながわ)」と、そこで「一大観光地」と称された「砂川遊園・砂川奇勝(きしょう)」について取り上げるということをしています。

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さて、いよいよ訪問のメインイベント、この企画展示を拝見して行きたいと思います。ありがたいことに、展示すべて写真撮影OKでした。

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企画展の会場に入ってまず目についたのは、この「泉南・砂川」にかつてあった「砂川遊園」という遊園地、そして、その遊園地の開園以前から同じ敷地内にあり、さまざまな形状をした岩や石が実に特徴的で「自然の名勝」として知られていた「砂川奇勝(すながわきしょう、後日項で触れたいと思いますが)」という、ふたつの名所についての変遷を記した実にこまかい年譜でした。個人的に、まずこの詳細さに見入ってしまいます。

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この、時系列を詳細に記された年譜を拾っていくと切りがないほどなので、ここではその内容が実によくまとめられている、会場で配布されていたこちらの案内リーフレットに沿って項を進めたいと思います。

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ここでいう「砂川遊園」とは「昭和10(1935)年」、ここ「砂川」を走る「阪和電気鉄道(現在のJR阪和線の前身)」の大阪・和歌山間の全通とほぼ時を同じくして、乗客誘致を主目的に開設されたものです。

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「昭和13(1938)年発行」の遊園案内図より。かなり広い敷地です。

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リーフレットには「(開業から)3年間で二百万人が訪れた」というくだりがあります。ということで、多い時には、一日5~6万人もの人々がこの遊園を訪問していたそうです。現在のように多種多様な娯楽がない戦前とはいえ、この数字は、実に突出したものだと窺い知れます。

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では、くだんのリーフレットに沿って「砂川遊園・砂川奇勝」の変貌について見て行きたいと思います。まずは「成長期」から。

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「砂川遊園」を設けた「阪和電気鉄道」は「昭和4(1929)年」、大阪の南のターミナル「天王寺(現在の大阪市天王寺区)」と「和泉府中(同和泉市)間」で開業、翌昭和5(1930)年にはさらに路線を南下させ「東和歌山駅(現在のJR和歌山駅)」までを全通させました。

大阪・和歌山間には「日本最古の私鉄」として知られる「南海鉄道(現在の南海電車本線)」が明治期から存在していましたが、旧街道の街沿いに線路が設けられてカーブの多かった南海に対し、まだ人家の少なかった山沿いに極力直線で線路を敷設し、当時としては破格の設備・車両群の「高速運転」で「南海」に立ちはだかったのが「阪和電気鉄道」でした。

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大阪・和歌山間のみならず、和歌山県内に入り、紀ノ川沿いに「名刹・根来寺(ねごろじ)」を経由し「粉河(こかわ、現在の同紀の川市)」に到る路線の計画もあるなど壮大なもので、南海が独占していたこの都市間の輸送に割って入ることになりました。

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ショーケースで展示されていた、他のリーフレットを見てみますと…

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海側を走るのが「南海」(赤い↓)、それに対して陸側の奥まったところを走るのが「阪和」。デフォルメされた案内図とはいえ「阪和」の直線区間の多さが実に目に付きます。
それほど「大阪・和歌山間の高速運転」に拘っていたことが窺えます。

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展示されていた資料に、当時の「阪和」の時刻表もありました。
「大阪・和歌山間全通」間もない頃のもののようですが「急」と書かれた「急行列車」、「阪和東和歌山~天王寺間」を55分で結んでいます。

路線の建設から時間が経過し、路盤が安定した後年には、同区間をノンストップ45分で結ぶ「超特急」も登場するなど、阪和最大の売りである「高速運転」はさらに拍車がかかりました(JR阪和線の「特急くろしお号」では同区間を「42~45分」程度で走破しているので、現代と遜色ない速さ!)。

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ところで「阪和」は「大阪・和歌山間」という二大都市を高速で結ぶだけではなく、沿線に広がる自然を生かしたレジャー開発、観光客誘致にも力を入れるようになります(そのひとつが「砂川遊園・砂川奇勝」)。

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こちらは昭和初期の、開業まもない頃のリーフレット。

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「松茸狩」「芋堀」「蜜柑狩」…
殊に「松茸狩」に至っては、定食のメニューやその「指定山」の多さといったら!いまでは、いろんな意味ですごいもんですが…

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また「東和歌山駅」で連絡する、省線(現在の「JR紀勢本線」)とも連絡運輸が行われ、沿線からはるか離れた「白浜温泉」への直通乗り入れ列車の運転、往復割引乗車券の発売がなされるなど、見ているだけでも楽しいものです。

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この「阪和沿線」は、先ほども触れたように、当時としてはまだ開発が進んでいなかったところが多かったこともあってでしょうか。
展示でも、このように「ハイキング」「〇〇狩り」と銘打たれたリーフレットの多さが目に付きました。

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興味深いパネル展示もありました。

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「広告件数からみた砂川周辺での花の名所」

「ツツジ、梅、桜、チューリップ、牡丹、萩」などとありますが、ここで記されている数値というのは「それら名所への観覧客誘致のため、阪和が当時の新聞でどのような内容の広告を出したのか?」というものでした。

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当時の「大阪朝日」や「大阪毎日」などで、実に多くの広告を打っていたようです。世の中の情報源を得る媒体としては「新聞」が実に絶大なウエイトを占めていた時代でしたから、これを見て、実際に自然を求めて(松茸を求めて?)沿線に赴いた層も多かったに違いありません。

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「兎狩」「お月見」「摘草」…というのに時代を感じます。

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そこで沿線への乗客誘致を進める中で「阪和」が打ち出した、最大の「娯楽施設」というのが「昭和10(1935)年」に開設された「砂川遊園」でした。
では、今回の企画展の中軸に当たるその「砂川遊園」について、もう少し掘り下げて探ってみたいと思います。

次回に続きます。
今日はこんなところです。