
今年の2月から、府内の南部に位置する「大阪府泉南市(せんなんし)」の「泉南市埋蔵文化財センター」で、この企画展が6月末まで行われています。
その名も「昭和の一大観光地砂川(すながわ)」。
企画展のポスターには「砂川遊園 阪和電鉄」という文字が見られます。

大阪市内の南の玄関口、「天王寺駅(大阪市天王寺区)」から府内を南下し「和歌山駅(和歌山県和歌山市)」を結ぶ「JR阪和線(はんわせん)」。
「南紀・関西空港方面」へのアクセスとしても重要な路線ですが、昭和初期の開業時には「阪和電気鉄道」という私鉄でした。

路線計画時から「大阪・和歌山間の直通高速運転に特化した鉄道」として位置づけられ、昭和初期の当時としては高速運転が可能な破格の路線規格、また、現在と比類するほどのハイスペックな車両を次々と投入、並行する「南海鉄道(現在の南海電車本線)」と激しい乗客の争奪を繰り広げました。
ところが、経営面の問題や時局の悪化などの諸事情が重なり「アジア・太平洋戦争」のさ中にはライバル「南海鉄道」に吸収合併、さらにその後、戦後には「国鉄」へ強制的に買収されて現在に至る…という経緯があります。

これら模型の車両群は、その「阪和電気鉄道」で走っていたものです
(トミーテック社から発売された「鉄道コレクション 第25弾」より。オレンジの塗装は国鉄になってからの晩年の姿)。
小型の電車が細々と走っていた当時の私鉄とは異なり、20m級の大型電車が高速で走る姿は、他のそれとは大きく一線を画していたといいます。
それと加えて、戦前にわずか20年弱しか存在しなかった「阪和電気鉄道」というのは、これらの時代を先取りした多くの革新的な取り組みゆえ「伝説の鉄道」とも称されているようです。

さて、冒頭で触れた「砂川遊園」というのは、この「阪和電気鉄道」が現在の「泉南市」に設けた遊園地のことで、実に広大な敷地面積の中に、さまざまな施設を持つものだったようです。
現在、その跡地のほとんどは宅地開発されているとのことですが、特筆すべきはかつて遊園地が設けられた場所というのが、はるか昔からさまざまな「奇岩」「奇石」が多く存在していた「砂川奇勝(すながわきしょう)」というところだったということでしょうか。
一度は現地を訪問してみたいと思っていたのですが、企画展を拝見するついでに、その「砂川遊園・砂川奇勝の面影」を求め現地を歩いて来ました。
今日からはその様子を、以前記事をアップしていた、現在も「JR阪和線」沿線の駅々、線路などに残る「阪和電気鉄道時代の面影を追う」というシリーズの続きとしてお送りしたいと思います。
よろしければ、どうぞおつきあいください。
シリーズ前回はこちらで終わりました↓
当ブログ
「阪和電気鉄道 昭和初期の面影 その34 東貝塚駅」
(2017年5月15日アップ)

さて、出発当日。
雨続きの日がようやく終わり、いちおう今日は「晴れ」予報なのですが…
本来はその「阪和電気鉄道」もとい「JR阪和線」で現地入りしたかったのですが、企画展が行われているセンターや「砂川遊園・砂川奇勝」跡地は駅から割と離れているようなので、クルマで出かけることにしました。

地元から「阪神高速」を乗り継ぎ、40分ほどかかったでしょうか。
まずはこちらの「泉大津パーキングエリア(同泉大津市)」に到着。
ここでちょっと休憩することにします。

場所を説明するのが難しいのですが、この道路情報マップでは中央が大阪市内。こちら「泉大津」は「阪神高速4号湾岸線」、□でかこったところです。

拡大するとわかりやすいでしょうか。
「関西空港の手前に当たる場所」ということで、ここまででも、大阪市内などへ向かう空港リムジンバスとあまたすれちがったことを思い出しました。
ここから目指すのは空港連絡橋の手前、阪神高速の終点に当たる「泉佐野南インター(同泉佐野市)」です。

実は、このパーキングエリアの「海側(上り線、大阪市内方面)」には「展望室」があります。

関西では、こういった施設があるのは珍しいものです。
うれしいことに、いま着いた「陸側(下り線、泉佐野・関西空港・和歌山方面)」からでも、連絡通路で展望室のある「海側」へ行けるとのこと。

ということで寒風吹きすさぶ中、展望室のある「海側」へと向かいます。

連絡通路から、走って来た「阪神高速4号湾岸線」がよく見えます。
空港リムジンバスだけでなく、臨海部に路線が設けられているということもあってでしょうか、大きなコンテナを積んだトラックも目立ちます。

エレベーターで11階に到着。いや、想像していたよりもゴージャスです。
次回に続きます。
今日はこんなところです。