「上州名物からっ風」に吹かれ、高崎駅から県東部へと延びる「上信電鉄」に乗り鉄しています。列車は「高崎市」を離れ「富岡市」に入りました。

山が少しずつ近づいて来た、広大な田園地帯を走り、とある駅に到着。
派手な?ゼブラ塗装の「高崎ゆき」が、その到着を待っていたのですが…

その駅とは「南蛇井駅(群馬県富岡市)」。
漢字の字面で見ますと、何の変哲もない駅名のようですが…

ふと見上げた駅名標は「なんじゃい」!
これは、なかなかインパクトのある駅名です。
時と場合によっては、この駅名を叫んだりすると、思わぬ大ゲンカになりそうな…しかし、なにかいわくありそうな地名です。

この気になる「南蛇井」という地名については、先日来登場しているこちら
「各駅停車全国歴史散歩11 群馬県」から拾ってみます。
歴史の古い宿場町 神農原・南蛇井・千平
南蛇井とはなんじゃい
ひところ旅行マニアの間で「幸福駅(こうふくえき。国鉄広尾線、昭和62年に廃線。北海道帯広市)」や「銭函駅(ぜにばこえき。同小樽市、JR函館本線)」の切符が爆発的な人気を呼んだが、全国の旅行の珍名、奇名の駅として話題になったのがこの南蛇井である。地名のおこりについては、『和名抄(わみょうしょう、「和名抄聚抄(わみょうしょう じゅしょう)」とも。平安時代中期に編纂された今日の「辞書」に当たる)』の甘楽郡那射郷(なさきょう)にあたり、そこに湧き水、井戸があって古代人が集落をつくっていたという説と、「川の流れて広くなりたるところ」という意味のアイヌ語「ナ・サイ」からきたとする説などがある。たしかに下仁田の山奥から鏑川(かぶらがわ、利根川の支流にあたる。この一帯甘楽郡を流れる川)が流れ、平野が開けた地勢である。
南蛇井の鎮守は南西(なんさい)神社である。南西はここから南牧(なんもく、南牧村)にも西牧(下仁田町西野牧)にも行けるという分岐点の意味である。
伝説によれば、天智天皇のころ(六六一ー六七一)このあたりに南蛇井三郎という武将がいて官軍と戦ったとある。また、永禄一〇年(一五六七)武田信玄の武将が書いた「起誓連判」に、南蛇井五郎太郎重秀という人名があるところから、あるいは戦国時代この地に「南蛇井氏」という豪族がいたのかもしれない。(出典同 P151)
なるほど…平安時代の辞書にもその名が載っているほどの、こちらも古くから開けていた土地だったのですね。見聞すると「珍名」といえる地名、駅名かも知れないですが、長い歴史があったことがわかります。

さて、ここからは後ろの車両に移動して、車窓を眺めてみようと思います。
行き違いの「高崎ゆき」が発車して行きました。

そして、こちら「下仁田ゆき」も発車。小さな「南蛇井駅」でした。

まっすぐに延びる線路、進むごとに迫って来る山々に旅情を感じます。


移って来た後方の車両はこんな感じ。実にのんびりとしています。
少し強めに射し込んで来る陽射しが、まだ2月の半ばだというのに、もう春の訪れを感じさせるようなものでした。


隣の「千平駅(せんだいらえき、同)」に到着。
こちらも、味わいのある小さな駅。次はいよいよ終点の「下仁田」です。

先ほどの「南蛇井駅」を出てから、列車は山間部へと入って行きました。
右へ左へカーブを取りながら、ゆっくりと先へ進んで行きます。



高崎駅を出て1時間ほど、終点の「下仁田駅(しもにたえき、同甘楽=かんら=郡下仁田町)」に到着!一面に澄んだ青空が、実に気持ちのよい到着でした。
やはり、吹き付ける「からっ風」の強さに目が覚めるようです。

線路の終端部に、古びた改札口と駅舎がありました。
「ようこそ下仁田町へ」という、周辺の名所が書かれた歓迎の文字が、ちょっとうれしく感じられる終着駅です。
次回に続きます。
今日はこんなところです。