表題の企画きっぷで、初春の瀬戸内を旅した様子をお送りしています。

時刻は、午後2時半を過ぎたところ。
呉からは高速船で四国・松山へと渡る行程なのですが、ここに来て、少し時間が押して来ました(>_<)

ひとまず、高速船が発着している「呉観光港」へ向かいます。
駅からは、徒歩で10分ほどのようです。

冒頭でも触れたのですが、瀬戸内海沿岸に沿って走るこの呉線、車窓は素晴らしいものがあります。
10年ほど前だったでしょうか、今回乗車したのと反対側の三原駅(みはらえき、広島県三原市)から乗車したことがあったことを思い出しました。
確か、0系新幹線が引退するということで、その乗り納めで旅した時でした。
その際の記事はこちらもどうぞ↓
当ブログ
東海道新幹線 開業50周年記念企画 その5~「さようなら0系」編~
(2014年10月8日アップ)
広島方面からとは路線の趣きがまったく異なり、海岸線を急カーブでゆっくりと列車が走って行く際の、あの穏やかな海の景色は実に印象的だったのですが、そのような路線ゆえ、この「瀬戸内マリンビュー」という観光列車が呉線では運転されているとのこと。またの折には、ぜひ乗車してみたい列車です。

天井の高い改札を抜けますと、このような観光案内があまたありました。
これは「海自カレー」…
そうですね、旧海軍や、海上自衛隊ではカレーや肉じゃがは有名ですよね。

駅周辺の地図を見ますと、海上自衛隊の施設があることがわかります。
明治期以降は旧海軍の鎮守府が置かれた、国内でも有数の、重要な軍港でした。現代でもその地位は変わらぬもののようです。

ところで、鉄道の旅といいますと「駅スタンプ」が旅情をそそります。といいつつも、以前と比べたるとあまり興味が薄れてしまったのですが。

そうはいいつつも、こちらの駅スタンプ、デザインがとても格好よかったので捺して来ました。
先ほどの「瀬戸内マリンビュー」を模した専用台紙のデザインも手が込んでいるように思えます。いい記念になりました。

それでは、この呉駅については…わたしの旅の愛読書、
「各駅停車全国歴史散歩22 広島県」
(中国新聞社編、河出書房新社刊、昭和55年10月初版 絶版 P100-102)
から拾ってみることにします。
いまから40年ほど前のものですが…

旧海軍の町 呉
商店街はれんが通りの愛称
呉市の中心部は呉駅から約一㌔離れた中通り一帯で、商店街は「れんが通り」の愛称で買物公園になっている。商店街は「れんが通り」に並行した本通りもあり、銀行、商工会議所などが見える。反対の側には堺川が流れ、川沿いの桜並木をへだてて市役所や中央公園も広がっている(中略)。
呉駅の裏側約五○○㍍のところに、周辺の島から訪れる人たちの玄関口、呉中央桟橋があり、また駅前は市内外からのバスターミナルになっている。
乗り入れるバスは呉市営や国鉄、広電バス、芸陽バスなど。しかし商店街へはやや離れていることなどから、いま駅前の再開発が課題になっている。

昔鎮守府、今は総監部
市民広場の南側には、旧海軍に代わって海上自衛隊呉地方総監部がある。
呉地方隊をはじめ各種の隊員六○○○余、艦艇八○隻ほどの司令部である。
赤レンガ造りの明治の建物で、かつての呉鎮守府である。開庁依頼、終戦まで三二人の司令官が、ここで海の男たちを訓練し、作戦を練って艦隊の指揮をとった。戦後は米軍、英連邦軍が接収し、三一年になって海上自衛隊が引き継いだ(後略)。
胸しめつける海軍墓地
「海行かばみずくかばね、山行かば草むすしかばね…」。お国のため、と信じて疑わなかった”英霊”たちが祀られている。正式名称は和庄海軍葬儀場だった。明治二二年にできた。
現在は戦艦伊勢、日向や潜水艦伊29などの合同慰霊碑が三○余基ある。大半は戦後、遺族や戦友たちの手で建てられた。
碑文には「敗色日増しに濃くなってきた二十年七月二十四日、米機多数の攻撃を受け…」あるいは「十九年七月二十六日、ドイツ派遣の重大使命を果たして帰国の途上…」と、淡々とした中に胸をしめつけられる文が刻まれている。
そんな中に明治四○年、宮島沖で水死した英東洋艦隊水兵の墓もある。毎年九月、呉海軍墓地保守協力会の手で合同慰霊祭が行われている。

呉港埋めるマンモスドッグ
青山一丁目に続く昭和通りには、呉海軍工廠が姿を変え、近代化した臨海工業地帯の石川島播磨重工呉造船所、神戸製鋼呉工場、淀川製鋼所呉工場、日新製鋼呉製鉄所などの工場群が並んでいる。昭和二五年六月の旧軍港市転換法で誘致し、旧軍施設を転用して発展を遂げたものである(中略、地図赤い囲みがその周辺に相当)。

二○○㌧、三○○㌧級の大型クレーンが立ち並び、八○万㌧ドッグを中心に、工場や機械設備の巨大な姿が続く。
かつての戦艦大和(六万九〇〇〇排水㌧)に代表される軍艦建造時代のドッグに代わって、昭和四八年三月に完成したのが八〇万㌧のマンモス・ドッグだ。長さ五一〇㍍、幅八〇㍍、深さ一三・五㍍で、五〇メートルの水泳プールなら三ニはとれるという(中略)。

旧海軍から、現在の海上自衛隊へ続く歴史のあるここ「呉」なのですね。
では、くだんの松山ゆき高速船乗り場へと急ぎます。
駅東側の跨線橋を出ますと、呉駅構内が一望出来ました。こちらは広島方面。

そして、反対の三原方面。この先は山が迫っていることがわかります。

勾配を登りながら、線路は山へ向かい、真っ直ぐに延びて行っていました。
配線好き?にはいい光景ですね。

ところで、先ほど駅で捺したスタンプには「大和ミュージアム」や「てつのくじら館」という文字が見られます。

こちらが「てつのくじら館」。
スーパーの駐車場の隣に、突如、この潜水艦が鎮座しているという、実にすごい光景でした。正式には「海上自衛隊呉資料館」だとのこと。
その隣にには、「大和ミュージアム」があります。
あまりにも有名な、あの「戦艦大和」を中心に取り上げている博物館です。

ゆっくりと立ち寄りたいところですが、事情が事情なので(涙)先ほど、リンクを貼らせて頂いた、前回に訪問した際の写真を載せておきます。
有名なのは、実物の10分の1縮尺だというこの「戦艦大和」でしょうか。

華々しく登場した「戦艦大和」ですが…その後については、先ほどの文献からこちらも拾ってみます。
この造船所の山側で、造船所がパノラマのように見下ろせる宮原通五丁目には、旧海軍が全力を挙げて昭和一六年に完成させた”不沈艦”戦艦大和の記念碑がある。大和は終戦の年の四月に、片道の燃料しか積まず特攻戦隊の旗艦として、沖縄へ出撃中、米軍機一〇〇〇余機の攻撃を受けて沈没した悲劇の戦艦であった。乗員二四〇〇余人が犠牲になった(出典同、後略)。


穏やかな、春の海が続く海辺を散策している中にも、そういった歴史の上に、現在の日本というものがあるのだなと、先ほど訪問した広島・平和記念公園とともに、あらためて感じさせられるところです。
次回に続きます。
今日はこんなところです。