やる気の出し方出させ方 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。
今日も前回の記事に引き続き、夏休みに入っているわが娘についての話題です。

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わが家の冷蔵庫に、このようなプリントが貼られていたのは夏休みの少し前だったかと記憶しています。娘が授業の一環で貰って来たものだそうで、「家庭学習の手引き」というタイトルがつけられています。

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娘は「中学年」ですので、この記載を見ますとまずは「自主的に学習する習慣を身につける」ということが大事なところでしょうか。ここまではよくある内容なのですが…

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そんな中、プリントにこの「子ども」という詩が載っていたのですが、その内容に思わず釘付けになってしまいました。「ドロシー・ロー・ノルト」という、アメリカの家庭教育学者だという人物の詩文です。

この詩文を読みまして、最近、「小学校中学年になった娘」に対し、かつて自分が同じ「小学生だった頃」に重ね合わせることが、殊に多くなったように感じます。

自分にとって「小学生時代」というのは遥か彼方なことではあるのですが、それは学校生活以外にも、日常の生活場面において「かつて自分は当時、どのようにしていたのか」、そして「どのように親や大人と接して来たのか」と、おのずから少し意識してそれらを回顧し、彼女と接することが増えて来たからなのかも知れません。

事実、わたしが小学生であった30年以上前と比較しますと、良しにつけ悪しにつけ、当時とは比較にならぬほどさまざまな価値観や考え方が存在しているのではないかと思えます。そんな中だからこそ、「子ども自身が自分で考え、自分でものごとの本質を判断する」ということがなお重要なものであるように感じます。

この詩の中にあるような「ものごとの本質、価値を判断する尺度」を獲得するためには、まずは子どもの考えを受容し、生活場面ごとに親が補佐的に関わって、ものごとの判断というものを子どもが徐々にでもしっかり出来るよう、その基礎をしっかり固められるように働きかけていかねばならないことが必要に思えます。

いつかはそれが子ども自身にとって「自信」にもなるのでしょうし、それ以上に「受容されている」という気持ちがあるのは、きっと大きなことではないかとも感じます
(仮に自分がそのような立場であったら、そうありたいものです)。

しかし、幾度か読み返してみても、この詩文には実に印象深いものがあります。

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本題に戻りますが、「勉強せい!」と言われてからするのは、当事者の子どもとしても言う親としてもあまりいい気分がしないことですね。

学習のみならず、生活全般に対しての意欲が向上して行きますと、感受性が豊かであろう小学生にとっては、実に潤滑な生活になるのではないかと思ったりします。

いや、実に考えさせられるプリントでした…わたしにとっても大きな宿題です(笑)

今日はこんなところです。