表題の旅は第2日目、「根室本線」を北上し、「滝川駅(たきかわえき、空知管内滝川市)」へとやって来ました。昨日、岩見沢から旭川へ移動した際に通過したところです。


特急が停車する駅ですが、改札まわりはこじんまりとした印象を受けます。
大幹線の「函館本線」が乗り入れているということで、普通列車より特急列車の方が本数の多いという区間でもあります。

改札と相反して駅舎は立派なものですが、駅前ロータリーと合わせ改修工事が行われているということで少々、狭い感じを受けました。
では、この滝川駅については「各駅停車全国歴史散歩 北海道1・2」(北海道新聞社編 河出書房新社刊 昭和54年6月初版 絶版)から拾ってみます。
交通に生きる中空知の中核都市 滝川
囚人の血と汗が築いた国道
「みなさんがいま通っている国道12号線(札幌―滝川―旭川)は北海道の大動脈で、交通量も多いですが、じつは囚人の血と汗で築かれた囚人道路の先駆だったのです…」
昭和五二年、秋雨の日曜日。滝川郷土史研究会(三浦光正会長)、滝川郷土館(白井重有館長)が主催した「上川道路のルーツを探る会」の貸し切りバスの中でハンドマイクを握る白井館長の説明に熱がこもる。
明治一九年(一八八六)初代の北海道長官、岩村通俊(いわむら・みちとし、1840-1915。土佐国出身、明治政府の官僚・政治家。北海道開拓の第一人者で、北海道庁の設置を働きかけた)は上川地方(石狩川上流の現在の旭川を中心とする地方)の開発のために上川道路の建設を指示、滝川の当時の地名である空知太(そらちふと)を拠点として、樺戸集置監(空知管内樺戸郡月形町にあった刑務所施設)の囚人を酷使して工事が強行されたのだ。
空知太はアイヌ語で「ソー・ラプチ・プツ」に由来する。「ソー」は滝、「ラプチ」は水の上からおちる形容、「プツ(プト)」は川口。「滝川」はその和訳だ。北海道の”母なる石狩川”と、啄木が「空知川雪に埋もれて 鳥もみえず 岸辺の林に人ひとりゐき」とうたった空知川との合流地点が滝川なのである。幕末の蝦夷地探検家、松浦武四郎(まつうら・たけしろう、1818-1888。伊勢国出身、江戸末期から明治初期活躍した探検家。蝦夷地を探査し”北海道”という名称を考案した)はこの地方にいたアイヌの大酋長、セッカウシ一族の道案内でこの川口から石狩川の流れを丸木舟でさかのぼっていった。
”地の利”生かした屯田兵村
滝川はその地勢からも”交通に生きるマチ”として宿命づけられているが、奥地への道が「河川」から「道路」に変わったのは、この明治一九年の上川道路の建設以後である。北海道の多くの町村史は、開拓団体や屯田兵の入植からその歴史がはじまったように書いているがちがう。げんにその上川道路もそうだが、明治二三年滝川に屯田兵村がスタートしたとき、その兵屋四四○戸をたてたのは樺戸集置監の赤い服を着た囚人たちだったのだ。やがて、鉄道ものび空知太駅は当時、最北端の終点となった。石狩川の船運、上川道路の中継点、空知太終着駅という”地の利”が生かされ、屯田兵の生活の利便を図る兵村番外地に商家がならび市街地が形成されていった。ある古老の話。
「むかしの屯田兵の生活はそりゃ厳しかった。日中勝手に休養を取るなどとはとんでもない。朝四時というと起床ラッパ、やがてこんどは集合ラッパがなると、戸主は軍装で練兵場にかけ足。家族のモンは野良着すがたで農具をとって開墾だ。昼食正午、就業一時で引揚六時(秋から冬は五時)。すべて中隊のラッパで合図されて…」
「北海道の開拓史」といいますと、本州に近い道南の函館や松前などがその嚆矢で、江戸末期からの歴史があることが知られていますが、それ以降、つまり明治に入ってからは内陸部へもその流れが急激に押し寄せて来ました。
あらたに「北海道の拠点」となった札幌に近い「石狩平野」の最東端にあたるこの「中空知地域」がその内陸部開拓のはじまりだったようですが、開拓においては現在では想像もつかない壮絶な歴史があったようです。

駅構内を俯瞰してみますと、「函館本線」の他の主要駅同様、構内は長く広く続いています。画像左側がその「函館本線」、先ほど降り立った右側のホームにはこの駅を起点とする「根室本線」が発着しています。


木造の跨線橋が残るレトロな駅構内です。
ここからは「旭川ゆき」に乗車することにしています。

旭川方面ホームへと降りて来ますと、広大な構内を横切るための人道橋が目につきます。人ひとりが通れる感じですね。

時刻は午後3時過ぎ。この日、昼からは急に雲が出て来るとともにかなりの強風が吹き荒れる天候でした。
そんな中、「空知平野の象徴」だという「ピンネシリ(敏音知)」がうっすら見えます。
また、このような記述もありました。
中空知中核都市の”最近の顔”
滝川の農産物は米、タマネギ、リンゴだが、その水田は明治二四~二五年に屯田兵がはじめたもの。「一反歩からわずかに二俵半の米を感激のうちに刈りとった」といういいつたえがある。いまや北海道の穀倉、石狩平野の北よりの交通拠点である。国鉄函館本線、国道12号と、それぞれ別れる国鉄根室本線、国道38号線の分岐点になっており、中空知広域市町村圏の中核都市だ(もうひとつの大動脈、「道央自動車道」が「滝川インターチェンジ」まで開業したのは昭和63年)。
中空知圏(芦別、赤平、滝川、砂川、歌志内の五市と奈井江、上砂川、浦臼、新十津川、雨竜の五町)は面積にすると二二○○平方キロメートルになる。
「本州の一県分の広さがゆうにある。それがどの市町にゆくのにも車で一時間たらず。こういう地域は北海道でも例がないんだ」
吉岡清栄・滝川市長の口ぐせである。中空知圏をはじめ、隣接市町のショッピングタウンとして、滝川の商店街はいつも活況を呈している。”兵村番外地”いらいのノレンと交通の便がそれを支えている。(後略)

記述にあった「滝川」とその周辺、中空知地域を構成する各自治体です。
石狩川をはさんだかなり広い地域であることがわかりますが、この中空知地域の「二二○○平方キロメートル」とはどの程度のものかをいうことを「都道府県の面積」で比較してみますと…
佐賀県 2,440.64平方キロメートル
神奈川県 2,415.81平方キロメートル
沖縄県 2,281.00平方キロメートル
ということで、本当に「一県分の広さ」なのですね。びっくりしました。



そんな「中空知」の交通の要衝、滝川駅でした。
「札幌、旭川ともに1時間程度で到達出来る」、というアドバンテージは道内でも有数の立地条件なのでしょうね。

ところで、先日書店に行った際にこのような書籍を見つけました。
「最新 全日本鉄道・バス 旅行地図帳2016」(小学館刊、平成28年発行)というものです。先日、記事でも取り上げました「キハ40形ディーゼルカー」の写真が目に入ったのでとても気になり、さっそく入手した次第です。

見開きにはこの「北海道全図」が掲載されていまして、鉄道路線のみならず沿線の名所や観光地などが詳細に記されているなど、見ているだけでも大変楽しいものでした(先ほどの「中空知地域」の地図はこちらから拝借したものです)。こちらの力もお借りしながら、今後のシリーズを進めて行こうかと思います。余談でした。

次回に続きます。
今日はこんなところです。