昨日、発生した北海道・青森方面での地震により被害を受けられた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
表題の旅、第2日目の様子をお送りしています。

「旭川駅」から、花と緑がいっぱいの車窓を楽しんだところで「富良野駅(ふらのえき、上川管内富良野市)」に到着しました。

この駅では、先ほどまで乗車して来た「富良野線」と「根室本線」とが合流しています。「人気観光地」ということで、多くの観光客が下車して行きました。

わたしもそのあとに続き、改札を出てみます。

ホームは二面なのですが、構内は延々と先に続いており結構広い様子です。


ところで、乗車して来た「普通 帯広ゆき」はここで30分ほど停車し、種別変更のうえ「快速狩勝 帯広ゆき」になります。この間を利用し改札を出られます。

跨線橋にあった案内ですが…ほほえましいタイトルです。

「富良野駅」を出入りするディーゼルカーを紹介しているようです。
これは、先ほど乗車して来た「キハ150形」。
車体のカラーリングは、やはり「緑とラベンダー」だったのですね。目に優しいですし、沿線のイメージが湧きます。

こちらは、ローカル線ではおなじみの「キハ40形」です。
いまだ、全国津々浦々で出会うことの出来る車両なのですが、ここ北海道では耐寒仕様が施されたものが幅広く運用されています。この旅でもここまで幾度となくお世話になりました。
ところで、説明文の最後、「朱色(あか)のキハ40系をみるといいことがあるかも…」というくだりが大変気になります。そういえば、ここまではまったく遭遇していません。途中で出会えればいいのですが、いったいなにがあるのでしょうか。

跨線橋を降りて改札に向かいます。「観光地ならでは」という感じですね。

改札まわりの様子。出札口の駅員さんがとても親切でした。

茶色のデザインが瀟洒な印象です。駅前にはタクシーがたくさん並んでいるなど賑わっていました。

振り返りますとこの景色でした!
夕張山系のひとつ、「芦別岳(あしべつだけ、1.726m)」という山だそうですが、駅からこれほど近いところにあるのですね。
「これから観光」という人々からしてみればテンションが上がりますね( ´▽`)

では、この「富良野」については「各駅停車全国歴史散歩 北海道1・2」(北海道新聞社編・河出書房新社刊 昭和54年9月初版 絶版)から拾ってみたいと思います。
北海道のへそ 富良野
珍妙な祭り
ハアー まん中 まん中のドまん中ヨ おらがふらので見せたいものは 蝦夷のまん中の出べそ石 イイジャナイカ イイジャナイカ イイジャナイカ…
七月ニ八日から二日間、こんな底抜けに陽気な音頭が富良野市の繁華街にあふれて、名物の北海へそ祭りは始まる。この音頭の作詞者でもある地元の操上秀雄さんが中心になって昭和四四年に創始され、いらい回を重ねること一〇回。盆地のまん中のこれといって特色のない富良野にとって、もう欠かせない年中行事になっている。
通称へそ神社と呼ばれる北真神社(ほくしんじんじゃ)でおごそかな例大祭。へそ出し姿の威勢のいい氏子たちがかつぐへそみこし。夏の夜を飾るへそ踊りパレード。祭りの中味はへそづくしで、へそ、へそ、へそと切りがない。(中略)
へそ祭りが最初に提案されたとき、地元の一部には「へそで茶をわかす」と反対もあった。結局、市民もこだわりなく参加、へそに目くじらを立てないあたり、この街ではユーモアが理解されている。

なかなか、楽しそうな祭りですが…
主題の「へそ」については、以下のような事情があるようです。
その由来
富良野市街地の西寄りにある富良野小学校の校庭に、「北海道中央経緯度観測標」と刻んだ石碑が立っている。観測標そのものは碑のすぐ脇にあり、これが富良野を北海道のどまん中、つまり、へそであるという証明書の役割りを果たしている。
北緯四三度ニ四分、東経一四二度一六分。この標識の位置は、北は稚内から南は函館、東は根室から西は奥尻島までの東西、南北それぞれの中央に当たる。(中略)
富良野は五三年の秋には、兵庫県西脇市と友好都市の契りを結ぶまでに至っている。西脇は東経一三五度、北緯三五度で、日本のどまん中に当たる。都市提携は数多いが、へそが縁とは珍しい。

「Wikipedia #北海道」より。確かに「へそ」ですね。
しかし、意外なところで「西脇(にしわき)」の名前が出てきたことにも驚きました。
そういえば、その西脇を走る「JR加古川線」には「日本へそ公園」という駅があったことをはたと思い出しました。北海道と兵庫県、まるで縁のないように見えるのですが、これは「不思議な縁」ですね。
では、続きです。

広大な大学の演習林
いくら富良野でも、へそだけで街が成り立っているわけではない。明治三○年に本格的な開拓が始まっていらい下富良野村、富良野町、昭和四一年に南の山部町(やまべまち)と合併して市に昇格して今日に至っているが、富良野盆地の農林産物の集散の中心である。
ここでは大学が市の発展にからんでいる。富良野市街から南の山部にかけての空知川沿いの平地は、北海道大学の農場だった。明治末から昭和も戦後まで大学が地主、入植者は小作人という関係が保たれ、昭和二五年に解放された。市街地はずれで”学田一区”、空知川を渡ると”学田三区”など、学田という地名に出くわすのは、この名ごり。(後略)

「富良野駅」の隣はその「がくでん(学田)駅」があります。「一風変わった駅名だな」と思っていたのですが、「大学の田んぼ」だったのですね。興味深い由来です。
ところで、この「富良野」という地名の由来は、街を流れる「富良野川」が硫黄の臭気を放っていたことから、アイヌ語の「フラ・ヌ・イ(臭い・持つ・ところ)」だそうです(諸説あり)。
やはり山が近く、温泉が湧出していた、といったことからでしょうか。

では、ぼちぼちと列車に戻りたいと思います。
次回に続きます。
今日はこんなところです。