先般、模型メーカー「トミーテック」から発売された、人気鉄道模型シリーズ「鉄道コレクション 第22弾」のうち、「個人的に気になる車両をピックアップして取り上げる」ということをしています。
前回の記事はこちらです↓
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トミーテック「鉄道コレクション 第22弾」発売!気になる車種をピックアップ~前編
(2016年4月9日アップ 「江若鉄道 キハ12・岡山臨海鐡道 キハ5001」を取り上げています)

今回、取り上げますのはこの「加悦鉄道 キハ08(かやてつどう、昭和60年に全線廃止。京都府北部に存在した地方私鉄)」という気動車(ディーゼルカー)です。

「朱色とベージュ」という塗装は、旧・国鉄の普通型ディーゼルカーの大きな特徴でもあります。しかしながら…

こちらは「キハ20」という形式の車両です。
同じく旧・国鉄の普通型ディーゼルカーとして活躍したものなのですが、先ほどの「キハ08」車両とはどこか雰囲気が異なります。

「側面の窓が小さい」、「正面の顔面積が広い」…というところでしょうか。
よく見かけるディーゼルカーとは、どことなく何かが違うようにも感じます。

ところで、こちらは「オハユニ61」という客車です(「3等車」と「郵便荷物車」が同じ車両内で混在しているもの)。
「客車」ですので自走は出来ず、主に機関車に牽引されて運行されていたものです。ただ、この「小さい窓」、そして「正面の面積の広い顔」…

実はこの「キハ08」というディーゼルカーは、先ほどの「オハネフ61」をはじめとする「60系客車群」にディーゼル機関を載せるなどし、自走出来るよう改造された車両です。

これについては、毎度おなじみ「Wikipedia」のお力をお借りしたいと思います(^.^)
(「国鉄キハ08系気動車」の項より)。
…国鉄液体式気動車は、昭和30年代、非電化線区の動力近代化の旗手としてその勢力を拡大していったが、その需要は供給を上回り、現場や沿線地域の要望に気動車の新製が追いつかない状態となっていた。
やむを得ず、一部では気動車の編成に在来からの客車を増結する事例が発生した。だがこれは(中略)合理化に逆行するものであった。また勾配区間における無動力の客車増結は、当時の気動車の性能的限界から登坂困難で、貨物列車用に配置していた蒸気機関車を登坂用の補機として連結せざるを得なくなり、無煙化(むえんか。蒸気機関車列車の廃止)の妨げとなった。
「気動車(ディーゼルカー)では絶対的に車両数が足りず、無動力の客車をそれに連結(増結)する」ということですが、それほど需要が切迫していたということでしょうか。
そこで考えられたのが、気動車の増備に伴い、余剰車の発生が予想されていた客車にディーゼルエンジンを搭載し、気動車化する構想であった。
客車改造気動車が新製気動車増備までの「つなぎ」として将来の早期廃車が見込まれており、その際には発生品のエンジンを特急形や急行形に搭載されている同型エンジンの予備に転用する考えがあったことも一因であったとされる。(中略)北海道の苗穂工場で改造された。
ここで、「余剰となる客車の有効活用→客車をディーゼルカーに改造する」というアイデアが編み出されたようです。

妻面(つまめん。車両端の部分)には、他の一般形気動車に準じて窓(赤い○部分)や貫通扉(青い○部分)が設けられたが、車体断面は屋根の深い(茶色○部分)客車時代のままで、前照灯も幕板に埋め込まれる(黒い○部分)など、異様な雰囲気を醸し出している。(中略)苗穂機関区・釧路機関区に配置されている。
ちなみに、この「深い屋根」はその形状から俗に「かまぼこ屋根」とも称される特徴あるものです。
このように「客車時代の面影」を存分に残していたこの「キハ08」ですが、「切迫した車両不足」という事情が実に「背に腹は代えられぬ」ものであったことが伺えます。
当時の北海道では気動車が慢性的に不足しており、これらの客車改造車は輸送力増強の手段として期待された。
しかし、さほど軽量ではない客車にエンジンを搭載したことで車体重量は嵩み、走行性能は良くなかった。(中略)
もとより軽量化よりも牽引時の強度を重視した客車の鋼体は、必ずしも気動車に向くものとはいえず、(中略)加速・登坂・制動性能などへの影響は避けられなかった。
実際の運用にも制約を受け、多くの場合はキハ21形やキハ22形など、より軽量で性能に余裕のある一般型気動車と併結運用することで非力さを補うことが多かった。(中略)釧路配置車はその非力さ故に、急峻な狩勝峠越えでは9600形蒸気機関車を補機として連結する必要があったという。
このように問題が多い車両でありながら、改造コストは1両1,200万円(当時)に及び、1エンジン気動車の完全新造費用が1両2,000万円(当時)であったのに比して割高に過ぎた。結果としては扱いにくい失敗作と言わざるを得ない状況で、大量増備には至らず、いずれも1971年(昭和46年)までに除籍(廃車)された。
「急ごしらえ」感を受けるこの車両だったのですが、そもそも「客車」と「ディーゼルカー」とでは車体構造などの設計がまったく異なるものだったので、それを無理くりに改造したということで、根本的な問題解決には至らなかったようです。
キハ08 3は京都府の加悦鉄道に譲渡され、便所の撤去等の改造を施工された上で1974年(昭和49年)から使用された。加悦鉄道は1985年(昭和60年)に廃止されたが、キハ08 3はその後も解体されずに保管され、現在も京都府与謝郡与謝野町の「加悦SL広場」において静態保存されている。本系列で唯一の現存例である。
「加悦鉄道」は「全長 5.7km」という規模の小さい鉄道で、なおかつ全線にわたって勾配が少ない平坦な路線条件だったので、非力と言われたこの「キハ08」でも十分活用出来る、ということが導入の理由になったのではないかと思われます。
そういった訳で、昭和30年代、北海道内での「輸送需要に追いつかないことによる慢性的な車両不足」という事情がこの特異な車両が誕生した所以だったようですが、記述にもありましたように「需要が多くても蒸気機関車を再び積極的に活用するのは時代に逆行すること」という、ある種のジレンマがこの車両が登場する背景にあったことは興味深いことです。

「JTB時刻表 平成28年3月号」より。
ところで、「北海道新幹線 新函館北斗開業」で湧く「北海道の鉄道」ですが、それに対して在来線列車では「列車本数の減便、路線廃止の動き」などが見られるなど、乗客の著しい減少に端を発したこれらの「規模縮小への動き」というものは大変気にかかるものです。

「国鉄監修 日本交通公社(現在のJTB)時刻表 昭和49年3月号」より。
道内には現在では想像もつかないほどの鉄道路線網が張り巡らされていたことがわかります。そんな中、かつては捌き切れないほどの旅客需要があり、さまざま取られた対策の中のひとつがこの「キハ08ディーゼルカーの製造」でした。
「北海道新幹線開業」の一方での「在来線規模の縮小」という事実を鑑むと、現在が「北海道の鉄道史における大きな転換点」という様にも感じられるのですが、この「キハ08」という車両が「北海道の鉄道が隆盛を誇っていた時代」を語る上では欠かせない車両であったことは、どうやら間違いなさそうです。
次回に続きます。
今日はこんなところです。