みなさんこんにちは。
再開後、初の記事アップになります。どうぞよろしくお願い致します(^^)v
さて、以前、「野崎観音」(大阪府大東市)に詣でていましたが、その様子の続きから再開したいと思います。
題目の「少し遅れて」が「だいぶ遅れて」となってしまいましたが、ご容赦ください(笑)
前回の記事です↓
当ブログ
少し遅れて「野崎まいり」 中編
http://blogs.yahoo.co.jp/rushdoor/35939319.html (2015年5月13日アップ)

前回は、ここ「野崎観音」から見える「大阪平野」をご覧頂きました。
順序が逆になりましたが、参拝をして行きたいと思います。
まずは「山門前」にやって来ました。
結構な坂道になっているのは、この「野崎観音」が「生駒山系」の「飯盛山(いいもりやま)」に位置していることが伺えます。つつじがキレイですね。

「山門脇」の「常夜灯」です。寺社仏閣ではよく目にしますが結構な大きさです。

「寛政九丁巳(かんせい きゅう ひのとみ)…」と読み取れます。
「丁巳」は「干支」の表記で、「寛政九年」は「西暦1797年」、ちなみに「伊能忠敬が蝦夷地を測量した頃」だそうです。

「山門」をくぐったところです。
ここからも「大阪平野」の眺望がちらりと見えます。


境内は広いので、涼やかな風が吹き抜け気持ちが良いです。


こちらは「本堂」です。
「野崎観音」の由来は「天平勝法年間」(西暦749~757年)にさかのぼるそうです。
「東大寺盧舎那仏開眼」(西暦752年)のために来日した「婆羅門僧正」という人物が、当時、仏教の布教活動に尽力していた「行基僧」に「このあたりは釈迦が初めて説法を開いた鹿野苑(サールナート)に似ている」と語ったことから、この地に観音様を安置したのが始まりなのだそうです。
現在の場所に本堂が建築されたのは「平安時代」なのだそうです。
結構な歴史がありますね。
ちなみに、「野崎詣り」の習慣は「江戸時代中期」に始まったようです。

お参りを済ませた後、境内をぶらぶらしてみます。
本堂のちょうど反対側に、このような「竜宮城」のような「山門」を発見しました。

この門の先は…

「野崎駅」へ向かう、別の道につながる「出入口」でした。
少しこの石段を下り、山門を振り返ってみたのですが…

いや、これは美しい!
「新緑」もですが、「白い門」にもそれが映えて思わず「ハッ」とさせられました。


「歴史深いお寺」に「豊かな新緑」と「輝く陽光」。
記述しているだけでリフレッシュ出来そうですね(^O^)

今度は「鐘楼」です。

屋根瓦が苔むしているところもあって、実に趣があります。

結構大きな鐘です。大みそかの時に鳴らすそうです。

最近、「寺社仏閣散策」をしていると、このような「当時の建築様式」に目が行くようになります。

こちらだけではないのですが、「雲」をイメージしたと思しきデザインがなされていることが多いように感じます。やはり「お寺さん」だからでしょうか。

最後に、この「鐘楼」のすぐ脇にこの「南條(なんじょう)神社」がありました。
「お寺の境内」に「神社」とは、なかなか見られない光景ですが、こちらはこの「野崎地域」の「氏神」として、「観音様」とともに古くから信仰があるそうです。
(同じ境内にあるのは、「神仏習合」の影響も少なからずあったようです)。

「南條神社」の一角から。ここからも良い眺望が愉しめました。

さて、すっかり長居してしまいました。
そろそろ帰路に就くことにします。
行きの階段も、下りはまた全く景色が異なり興味深いですね。

石段の途中から振り返ってみると、やはり「神々しい新緑」がそこにはありました。

一歩ずつ、石段を下ります。
上って来る人と結構すれ違い、みなさん気持ちよく挨拶をされて行きます。
いや、「景色」もさることながらですが、「豊かな新緑」と言い、この「観音様の由来」などを知り、「大変清々しい気分」になることが出来ました。
およそ「四半世紀ぶりの参詣」でしたが、また是非に再訪してみたいと感じました。
今日はこんなところです。