SANZEN-HIROBAを訪ねて その16 | 「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」ありのまま生きてこう 自分を磨きながら

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「EXPO2025 大阪・関西万博訪問記」公開中!趣味の鉄道の話題を中心に、旅行記や生まれ育った東大阪、敬愛するロックシンガーソングライター・松阪晶子さんについてなど綴りたいと思います。

みなさんこんにちは。
前回、前々回はつたない腕の「撮り鉄」でお茶を濁してしまいました…
失礼致しました(>_<)
また機会がありましたら懲りずにアップしたいと思いますので、どうぞ我慢してやってください(笑)
 
本日の話題です。
また舞台は「SANZEN-HIROBA」に戻ります。
「期間限定展示」の展示物が入れ替えされたと耳にしたので、先日、また覗いて
参りました。
 
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今回の「期間限定展示」は「ヘッドマーク類」でした。
こちらにつきましては、これから訪問される方もおいでだと思いますのでご紹介は
また後日にさせて頂きたいと思います
(比較的、近年に使用されていたものが多かったように思います)。
 
それと同時に、壁面スペースに掲示されている「ポスター類」も一部が入れ替えさ
れていました。今日からはその内容を取り上げたいと思います。
 
まずはこちらから。
 
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上部の「東福寺~三条間 地下化工事」のものについては、先日ご紹介しましたので割愛させて頂きます。
本日取り上げるのは、その下の「浜大津駅 移設・統合化」の告知ポスターです。
 
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「駅統合直前」の昭和56(1981)年初頭のものと思われます。
 
「浜大津駅」は、「琵琶湖観光の玄関口」として知られる駅で、駅の至近には、京阪グループの「琵琶湖汽船」が運航する「ミシガン・ビアンカ」などの観光船が発着する「浜大津観光港」があり、また、駅周辺には「浜大津アーカス」や「琵琶湖ホテル」などのレジャー施設もあります。
 
また、「大津線」(「京津線」・「石山坂本線」の総称)の基幹駅でもあり、運転上でも
重要な要衝となっています。
 
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現在では、「京津線」、「石山坂本線」はそれぞれ「地域輸送に特化した、各々個別の路線」として運行されています。特に、「石山坂本線」では、「ラッピング電車」の種類の多さが全国屈指でもあり、最近では「アニメ」関係のものも多く見られます
(当方は「アニメ」関係にはあまり詳しくないので、詳細はよくわかりませんが…)。
 
先述しましたが、それぞれの路線は現在、どちらかというと「地域輸送」に特化したものとなっていますが、昭和50~60年代までは、「大阪・京都方面」から「大津・琵琶湖方面」への「連絡輸送」に重点を置いたダイヤが組まれていました。
「浜大津駅統合」も、その「連絡輸送」の歴史の変遷の一部だと言えるかも知れません。
 
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ところで、こちらは「京阪時刻表(第1号)」です。
発行は昭和55(1980)年3月、時は京阪本線で「民鉄最長の複々線(当時)」が完成し、本線系統の大ダイヤ改正が行われた時のものです。
ちなみに、表紙は当時京阪の看板列車であった「旧・3000系(テレビカー)」ではなく、かつて「大阪~大津間」を直通運転していた「60型(通称『びわこ号』)」です。
 
なぜ「テレビカーではなくびわこ号なのか」というと、この時刻表が発行された昭和55(1980)年は、「京阪電車開業70周年」の節目に当たる年であり、その70周年の記念事業の一環として、「石山坂本線」の「錦織(にしごおり)車庫」に「保管」されていた「60型・63号」を製造当初の姿に近い形で復元し、「ひらかたパーク」に保存された
からだと思われます。
 
余談ですが、ちなみに、このように「ひらかたパーク」に展示されていた時には、車内にも自由に入ることが出来ましたが、その後は「パーク」内でも展示場所が変更になり(車内にも入れなくなってしまいました)、現在は「寝屋川車庫・車両工場」内で保管されています。
 
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さて、本題の「京阪時刻表 第1号」をめくってみます。
「全線停車駅案内」ですね。
 
本線系統では「宇治線に急行」が運転されていたことが目に留まります。
通称「宇治急(うじきゅう)」とも言われ、朝ラッシュ時には「宇治→京都方面」が、夕ラッシュ時には「京都方面→宇治」の列車が運転されており、配線の都合上、「中書島」で列車の向きを変えていました。
 
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本題の「大津線」系統です。
現在と大きく違うのが、まず「京津線」では「三条~御陵間」が「京都地下鉄東西線」の開業で廃止となり(平成9年10月)、「京津線」、「石山坂本線」に「急行」と「準急」が運転されていたことでしょうか。
この当時は、先ほども述べましたが、「京都三条」から「浜大津」を経由し、「石山寺」までの直通列車が運転されていました。
 
並行する「国鉄(現在のJR琵琶湖線)」との競合を意識したものだったようですが、
国鉄より京都市内まで所要時間がかかる分、「運賃の安さ」や「大津市内の各駅に停車している」とか、「京都三条」というターミナルまで直通する、といった「利便性」は「京阪」の方が一枚上だったようでした
(現在は「JR京都駅」の方が繁華ですが、この頃は「京都の町外れ」に位置していた「国鉄京都駅」は不便で、周辺の開発もあまり進んでおらず、「一大バスターミナル」も併設していて、なおかつ大阪方面への乗り換えが便利だった「京阪三条(地元では『三条京阪』と呼称されていた)」が、京都市内の交通の中心でした)。
 
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「京津線」・「石山坂本線」のページです。
ご覧のように、まるで両線が一体化したような仕様になっているのがおわかり頂けるかと思います。
 
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その下には、「京津線浜大津駅と石山坂本線浜大津(東口)駅間の徒歩連絡は
約3分かかります」と注釈が振られています。
「P194をご参照」とあるので、そこに飛んでみたいと思います。
 
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この当時の「浜大津駅」案内図です。
向かって左側にあるのが「浜大津(東口)駅=石山坂本線の浜大津駅」、右下にあるのが「浜大津駅=京津線の浜大津駅」です。
 
なぜ、このように「わざわざ2つも駅を設けたのか」、と言いますと、理由は「京津線」と「石山坂本線」の出自によるもので、「京津線」は「京津電気軌道」が、「石山坂本線」は「大津電車軌道→琵琶湖鉄道汽船」がそれぞれ「別会社」として建設したためです。
1929(昭和4)年に「大津電車軌道」と「琵琶湖鉄道汽船」が「京阪」に合併され、同一会社となりましたが、10年後の1939(昭和14)年にようやく「京津線」と「石山坂本線」の連絡線(上の図で言うと「浜大津(東口)駅」から右下の「浜大津駅」に延びる複線)が設けられましたが、駅が分離している状態はそのままになっていました。
 
京都方面からやって来る「京津線」の電車は、「石山坂本線」の線路を直角に超え、
「京津線の浜大津駅」に入線していましたが、「京津線」と「石山坂本線」の直通運転がなされていた時代には、京都方面から石山寺方面に向かう列車は、この「京津線の浜大津駅」に一旦入線し、客扱いの後、スイッチバック(列車の進行方向の向きを変えること)をして「石山坂本線の浜大津駅」に入線し、こちらの駅でも客扱いをしていました(石山寺方面から京都方面に向かう列車の場合は、この逆)。
 
ただ、このような状況では「乗客に不便を強いる」ということで、昭和56(1981)年に開催された「びわこ国体」を機に、浜大津駅の統合・周辺の再開発が計画されるようになり、同年4月11日に、バスターミナルを備えた「新・浜大津駅」が完成し、同日に「大津線」系統でダイヤ改正が行われました。
この改正では、「京津線」と「石山坂本線」の直通運転が廃止、また、「急行」も種別廃止となり、優等列車は「準急」のみとなりました。
 
また、「浜大津駅でのスイッチバック」が廃止されたことに関連し、列車運行上の必要性から「大津線電車」の方向転換が必要となり、「錦織車庫」に仮設の転車台を
設け、一台一台車両の向きを変えたという逸話もあります。
 
この運転系統は、平成9(1997)年10月の「京津線一部廃止」すなわち「京都地下鉄東西線開業・京阪の地下鉄乗り入れ」までおおむね継続されることとなりました。
 
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さて、こちらは「統合後の浜大津駅」、つまり「現在の浜大津駅」の状況です
(「京阪時刻表 第2号」昭和57年発行より)。
新駅舎・ホームの場所は、かつての「浜大津(東口)駅」の少し西側に寄った形に
なっており、かつての「京津線の浜大津駅」の跡地は、「明日都浜大津」というビルに変わり、跡形もありません。
 
「京津線」、「石山坂本線」ともに、ここ10~20年で大きな変貌を遂げており、大阪からなかなか出かける機会がないわたしとしては、その変化に驚かされます。
ただ、両線とも「経営状態はあまりよくない」とか、「分社化が検討されている」とか
いう話も聞きますので、今後も注目して行きたい次第です。
 
今日はこんなところです。