こそこそ唐揚げ弁当を食べる私
やりたいことはわかっているのにやるために全部準備も整えて、会場前まで来ているのに、一歩踏み出せなくてモヤモヤとしながらノートを書いていた時のこと。なんで行けないんだろう。やりたいのに。お金がもったいないのかな。続かないって思ってる?まわりにどう見られるかな。あー、考えてもわからん。めんどくさくなってきた。もうやめようかなぁ行くの、なんか気が乗らないし。気が乗らないってことはそこにときめいてないからだもんね。本当はやりたかったわけじゃなかったってことやん。とやめる理由探しをし始めた・・・そのとき。そこにいる自分の姿にハッとした。車の中でスーパーで買った唐揚げ弁当を食べながら、なんでやりたいことにスッといけないのかノートしている私。時々駐車場に入ってくる車があると唐揚げ弁当食べていることがばれないようにさっと隠しながら食べていた私(唐揚げ弁当はなにも悪くない)「こんな姿見られたくない!もし知り合いがきたらどうしよ!」と考えていた。そして、やりたいことにスッといけない理由探しはノートの中でぐるぐる状態。ふと、「こんなことしとるでや!」って出てきた。「こんなとこで、こんな風にしとるで!」「誰かにみられたくもないようなことをしとるでや!!」そわそわそわそわしながらノート書いて、まわりに止まっている車や駐車場に入ってきた車に目を光らせて私がみられたくないと思っていることをみられないようにアンテナをビンビンに外に向けて立ててそりゃ。ノートの中ぐるぐるになるわ。ちっとも本質になんかもぐれんわ。外側に向けての感度が上がりすぎて自分の内側への感度が下がってる。もしくは自分自身の内面について不感症になっちゃっているから外側ばかりが気になるようになっている。そこにいるのは、車の中でこそこそと唐揚げ弁当を食べる女だった。私はそれが好み?私は何がしたかったんだっけ?自分自身の感度をさげておいて、外側に対して感度ビンビンにあげておくって意味がわからない!!馬鹿なの?私。それに絶望したとき食べかけの唐揚げおいておいて、すぐにやりたいことをやるために車を降りた。人にみられたくないと思ってることをするな。こそこそと外側ばかり気にして生きるな。外側に向かってアンテナをはる前に自分に中にふつふつと沸き上がるものを感じてさえいればいい。そうしたら車の中でどうどうと唐揚げ弁当を食べる日だってあるかもしれない。でもそれは、もしも誰かに見られたとしても全然平気なことなのである。そしてそんな風に食べた唐揚げ弁当はきっとちゃんともっとおいしい。こそこそと食べた唐揚げ弁当は、どんな味がしたか覚えていない。こうして私はカロリーだけをとって、食の楽しみを感じずに(また不感症を助長)きっと数時間後には不感症のまま無意識にお菓子をこそこそと食べて数日後には「なんか太ったー!」と言うのであろう。ノートには「みられても平気に生きろ!」とそのとき書いたけど今こうしてみると、そもそもそこじゃなくただ自分だけに集中しろよ!ということ。唐揚げ弁当を買って、駐車場でこそこそ食べるという選択をしたのは私。あのとき結果的にそういう現実だった、と言いたいところだがやっぱり全部私が選択した結果としての現実。本当にその唐揚げ弁当を食べたかったのか?車の中でこそこそと食べたかったのか?それが私の好みだったのか?今振り返ればやりたかったことじゃなかった。在りたい私じゃなかった。すでにやりたいことを選択していない現実の中でやりたいことにスッといけないのはなんでだ、とノートする意味。笑つじつまが合わないからぐるぐるする。今、その瞬間、この瞬間からやりたいことをちゃんと選んで行こう。ささいなことでも、自分の中にあるやりたい!を叶えてあげる。やりたい!と感じたことを叶える。また次のやりたい!がでて来たときに、そのとき、ちゃんとつかめる。やるというのはいつも建設的になにかすることではなくなにかをやめるというのも「やめることをやりたい!」ということ。「こそこそ唐揚げ弁当を食べる私をやめること」をやりたい!と実行にうつす。内側に聞いて。現実はいつも私の選択の上に成り立っている。ひとつずつ、小さなことから整える。