昆虫採集が苦手なわけは | 無精庵徒然草

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無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

264581_20191003210001 ← 井波律子 著『中国文学の愉しき世界』(岩波文庫)「物語,歴史,そして魅力的な奇人たち-親しみやすい文章で綴るとびきり愉しい中国文学案内」「烈々たる気概に満ちた奇人・達人の群像,とてつもないスケールに彩られた華麗な物語世界」 

 

 風が強い。風の唸る音が室内にいても聞こえてくる。台風は温帯低気圧に変わったが、直撃こそ免れそうだが、明日、風が一層強まりそう。

 

 井波律子 著の『中国文学の愉しき世界』を読了。富山生まれということで勝手に親近感を抱いている。ただ、金沢や京都での生活が長いようで、ちょっとがっかり。

 中国の古典にはあまり馴染みがない。それでも、現代の小説も含め、古典を少しずつ齧っている。父の旧蔵にも中国関連の本が少なからず。篆刻に打ち込んでいただけに、古典の中に四字熟語を探そうとしていたようだ。
 本書を読んで、あれこれ知ることが出来た。中国には、推理小説の伝統・系譜はない。そう言えば、現代は分からないけど、過去には思い浮かばない。何故? 但し、日本で言う大岡裁き風なのはあるらしい。それも、漢字で謎解き風らしい、とか。近代以前の中国では、名前を本名で呼ぶのはタブー視されていた(日本でも似た感覚があったのでは)とか、日本との違いと共に類似する文化も感じた。
 予断だが、井波氏の交友が凄い。吉川幸次郎、桑原武夫、梅原猛、高橋和巳、鶴見俊輔…。まいった。

 

 佐藤しのぶさんが亡くなられた。まだ若いって思っていた。YouTubeで皇后陛下作詞の歌を聴いて偲ぶ。せっかくだから(?)、森麻季さんの「からたちの歌」も聴く。ラジオでも滅多に流れない。コンサートは、敷居が高い。YouTubeは、有り難い。音質もラジオよりいいくらい。
 この夏、何故か車にはBeethovenのCD 懸けっぱなし。テンペストのピアノ曲を聴きたくて。今月から衣更えで、何故かエンヤ。

 

Life ← 藤崎 慎吾【著】『我々は生命を創れるのか―合成生物学が生みだしつつあるもの』(講談社ブルーバックス) 「最先端の合成生物学者や宇宙生物学者たちに連続取材し、「いのち」の本質を問う渾身作」

 

 藤崎 慎吾著の『我々は生命を創れるのか―合成生物学が生みだしつつあるもの』を読了した。
「生命とは何か。この根源的な問いに迫るために、いま、わからないなら自分でつくってしまおうというアプローチが有力視されている」とか。
 いい意味で意表を突く、面白い本だった。視点着眼点が類書にないと感じた。というか、欧米の科学者には大概眼中にないような、万物に神を生命を魂を愛着を感じてしまう日本人的自然観(感)をも視野に。だからと言って、科学の規範に外れているわけじゃない。生命を科学的(化学的)に創ろうとする様々な最前線の試みも興味深い。が、それ以上に生命の始りを探求していったら、ビッグバンにまで至ってしまう、その流れに必然性を感じさせられたことが驚き。生命の探求は、一筋縄ではいかないだろうと改めて感じさせられた。

 

 我輩はガキの頃、昆虫採集が苦手だった。嫌だった。だったら、やるなよ! ごもっとも。そこはガキ、男の子らしい真似をする。魚釣りもちょっとだけ。何が嫌いって、網で捕まえて(ここまでは我慢できる)、籠に入れて(これもなんとか我慢する)、あとは実質飼い殺し。まして、ピンで刺して標本なんて、とんでもない。別にいい子ぶってるわけじゃない。感覚的に受け付けないのだ。虫だって、捕まったら嫌だよね。追われたら怖いよね。まして、刺し殺して晒して喜ぶなんて、考えられない。刺す感覚が不快だ。


 魚釣りだって、釣り針に引っ掛けられたら痛いよね。感覚はあるんだから。そもそも、餌にするミミズが哀れ。針に刺し貫かれて。単に臆病なだけなのかな。ま、好き好んではしない。人が魚釣りするのも、何も言わない。刺し身、大好きだし。焼き肉も大好きだし。
 こんな話を持ち出したのは、ロボットに絡む本などで、魚や虫などには痛みの感覚がない、知覚なんてものはないって説を唱える方が少なからずいることに気付かされたからである。本当なのか。我輩は、魚類だろうと昆虫だろうと、痛みの感覚はあると思い込んでいた。我輩の考えは間違っている?