昨日、田中陸軍大臣のお孫さんにあたる田中英資(えいすけ)宅に朝堂院大覚総裁、とそして現在ベトナムの日本語学校で校長をされている西山さんと私でお伺いしました。祖父である田中大臣はアメリカ駐在時、マッカーサーと毎日トランプをしていたなかマッカーサーが日本に上陸するわずか2日前前に皇居前の第一生命ビル(その後GHQの本部が置かれた)にて自決、2日後マッカーサーは自決場所でを何故死んだと涙を流したそうです。

 

田中大臣はアメリカの凄さを知り絶対に戦争してはならないと説得したが当時の上層部は聞く耳を持たなかった、もし田中さんが生きていたなら憲法を含めあらゆる面で日本にプラスになった事でしょう残念です。
 

また戦後日教組は撤退的に軍人の子どもたちに弾圧をかけ田中さんも教員から陰湿なイジメを受け、反発し授業は聞かず、白紙のテストを出し続けだと言った話なども聞きました、しかし優秀なDNAを引き継いでいるのでしょう、物理学を専攻し一部上場の会社で将来は社長にと言われていましたが好きな音楽の道にそして海外のピアノメーカーにも行き勉強し今では海外のメーカーに対しここが悪いとアドバイス、ただちにメーカーも改良するほどの力を持っ調律
ご自宅にも何台ものピアノ(ショパン時代のピアノも)

また

昔からのレコードやそのオーディオの音は今迄聞いた事のない素晴らしい音、

本当に次元を超えて昔の歌手やピアノ、音楽隊などが目の前で演奏するようでした。

一流のピアニストもコンサート前に田中さん宅でピアノを弾きそこで本番に備えて準備するそうです、今度誘って頂く約束をしてきました。
素晴らしい1日でした。

 


 

                            

 

 

ショパン時代のピアノ

 

田中 静壱(たなか しずいち、1887年(明治20年)10月1日 - 1945年(昭和20年)8月24日)は、日本陸軍軍人。官位は陸軍大将従三位勲一等瑞宝章、功三級金鵄勲章

子息には光祐陸士46期)、俊資48期)、祐輔51期)、静雄53期)がおり、いずれも陸軍少佐終戦時)であった。また、第三次ソロモン海戦にて戦艦「比叡」艦長として戦った海軍大佐西田正雄海兵44期)は義弟である。田中、西田両名とも陸大海大軍刀組であったことから、『郷土龍野の誉れ』と地元の新聞にその逸材ぶりを報道された。

経歴[編集]

1887年(明治20年)10月1日、田中菊太郎の次男[注釈 1]として兵庫県揖保郡揖西村(現たつの市)に生まれた。実家は赤松満祐の一族を祖先とする大庄屋。

龍野中学校を卒業後、陸軍士官学校第19期兵科歩兵)に進学する。陸士同期は今村均本間雅晴など。 1907年(明治40年)5月31日に陸軍士官学校卒業。1916年(大正5年)、陸軍大学校第28期)を優等で卒業し、英国オックスフォード大学留学の恩典を与えられた。

その後はメキシコ駐在武官参謀本部欧米課班長を経て、1932年(昭和7年)からは2年間にわたって駐米陸軍武官としてワシントンD.C.に駐在するなど、知米派軍人としての道を歩む。アメリカでは当時米陸軍参謀総長に就任したばかりのマッカーサーとも親交があった[1]。指揮官としては渡米直前に水戸歩兵第2連隊を率いて第一次上海事変で初の戦闘に参加した。

将官昇進後は満州警備の歩兵第5旅団長の後、関東憲兵隊司令官、二度にわたる憲兵司令官など、憲兵関係の職をのべ4年ほど務めている。再び戦場に出たのは日中戦争支那事変)勃発後の1939年(昭和14年)8月で、第13師団長として約1年にわたって中国戦線を転戦し、特に宜昌作戦で市中一番乗りの功を立て、 第二次襄東作戦に続き感状を授与された。その後、1941年(昭和16年)10月15日、防衛総司令部東部軍の司令官に就任[2]太平洋戦争大東亜戦争)開戦後は1942年(昭和17年)8月、更迭された本間雅晴の後任としてフィリピン平定中の第14軍司令官に親補された。

敗戦当時は東日本の本土防衛を担う第12方面軍司令官兼東部軍管区司令官。空襲により明治神宮明治宮殿が焼失。帝都防空の責任により進退伺を出すも、昭和天皇に慰留される。

連合国軍上陸に備えて迎撃の計画も練り上げていたが、皮肉にも叛乱鎮圧が田中の最後の任務となった。 1945年(昭和20年)8月14日深夜に宮城事件玉音放送も参照)が発生。翌15日午前2時頃に田中の下へ一報が届くと激怒し「すぐ行く。ぶち殺してやる ! 」と答えたという。一時は副官が押しとどめたが[3]、早朝自ら皇居に乗り込んで叛乱将校を付添憲兵に捕縛させ混乱を収束させるなど鎮圧に貢献。亡き後日本を無事に終戦に導いた立役者とも称されている。

昭和天皇はその働きに対して同日の8月15日夕刻拝謁を賜った。それから9日後の8月24日、田中は、最後の叛乱となった川口放送所占拠事件を鎮圧。その夜、午後11時10分ころ、田中は、司令官自室[注釈 2]拳銃で心臓を撃ち抜き自決[5]。駆けつけた塚本清塚本素山)副官に対して、「万事よろしく頼む」と2回繰り返した[5]。満57歳没。