―「命を守れないかもしれない」と声をあげたその人に救われて。―


もう無理なのかもしれない――

そう思ってしまうほど、今日の私は心も身体も擦り切れていました。


精神科受診を重ね、いよいよ入院の方針が固まっていた入所者さんについて、

再び「なんとか施設で見れないか」と言われてしまいました。


私は「もう無理」と言ったつもりはなく、

「命を守れないかもしれない」という現場の限界を、

絞り出すように伝えていたつもりでした。


その思いを、ある介護士さんが代弁してくれました。

「このままでは、転倒して今度はたんこぶじゃ済まないかもしれない」

その言葉が、ようやく現場に風穴を開けてくれたような気がしました。


翌日、受診。

入院が決まり、心からほっとしました。


でも、それ以上に胸を打たれたのは、

付き添ってくださった長男の奥さまの言葉でした。


「されたことは忘れられない。でも、仕返しをしたら、私も同じ人間になってしまう」


50年以上続いた嫁姑関係。

思い出すのも辛い日々があったはずなのに、

怒りではなく「越えてきた」静かな強さを感じました。





🌱 私が看護師であり続ける理由



看護主任でもないのに、現場の調整役も担わなければならず、

看護師として本来の役割を超えて責任を背負う日々。


ガソリン代がかかるから通院をまとめてほしい。

夜間救急搬送があると費用が……

事務や経営の視点を無視する気はないけれど、

命を預かる現場としての矜持は、やはり手放せません。


私は感謝されたいわけでも、認められたいわけでもない。

目の前で苦しむ人のために、自分にできることをする。

ただ、それだけなんです。


現場は、みんながバラバラの方向を向いていても、

「人は人」と尊重し合える場所であってほしい。


施設長の利益優先の思惑なんて、明日はゴミ箱に捨てて行きます。

私は、目の前の人の命を守りたい。





🌌 スターシードの私にできること



私は自分のことをスターシードだと思っています。

だからこそ、今、この地球で、こうして誰かの苦しみに寄り添うことに意味があると信じています。


涙を流しても、心が悲鳴をあげても、

私は医療従事者です。


そして、今日出会った長男の奥様のように、

自分の痛みを超えたその先の「静かな赦し」を持つ人に、

私は光を届けたい。


傷を抱えながらも、誰かのために優しさを選ぶ人へ。

そんな人たちの心に、少しでも光が届くように。