僕たちはみな母のお腹から生まれ出てくる。そのことに誰一人の例外もない。

 

 この世に生まれた人の数だけ母は存在していて、この先どんなに科学が発達したとしても、これは未来永劫変わらないと思う。

 

 父と母がいて僕は生まれた。その父と母にも当然両親がいて、そのまた父と母にも・・・・とさかのぼると、たった30世代の昔には10億人もの父と母があったことになる。

 僕だけでなく今を生きる全ての人が同じで、そんなことに思いをめぐらすと、圧倒的な数字に理解が追い付かずめまいがしてしまう。

 

 僕らは今だけを生きているのではなくて、過去の両親の思いを全て積み重ねた、先っぽに生かされているのだと知ることができる。

 

 この頃は理想とされる家庭の姿も変わりつつあるようだ。女性の社会進出が増え、父親が家事や育児に参加するのも当たり前になった。これはとても良い事だと僕も思う。

 昔に比べるとたしかに、子どもを連れて抱えて歩くお父さんの姿を、街中で沢山見るようになったし全体的には増えているのだろう。

 

 とはいえ、どんなに父親が張り切ったところで、やはり母親の偉大さには敵いっこない。お腹の中に命を宿して血を与え育む「母」の真似はどうやったって出来ないし、男は頑張ったって乳も出ない生き物だ。母親はお産の苦しみも一人で抱えて、強く乗り切るのである。

 実際のところ血肉を分け与えて、子どもと一番多くの時間をともに過ごすのは、いつの時代もやはり偉大なる母親だ。

 

 まちを歩いていると、3人4人も子供を連れて歩く母親を見ることがある。手を引き、カートを押し、お腹に乳児も抱えている。

 決して体も大きくない華奢なお母さんが、苦労して子どもたちを連れて歩く様子は、逞しいなあとつくづく感心させられるばかりだ。大きなおなかを抱えて歩く母親の姿も、とても強く美しく神々しく見えて輝いている。

 

「母なる大地」

「母なる地球」

「偉大なる母」

 

 いろんな場面でその様に形容される母親の偉大さは、仮に今の世の中が、性差による表現にどれだけ臆病になったとしても、変わることはないだろう。

 

昭和43年頃。東京にて