☂㊽ 野花の花束 | 世の中の色々なことについて思うこと・神吉雄吾のブログ

 瓦礫の撤去作業で通ったひと気のない場所の、同じ地面にいつも花束が置いてあった。それは買ったものではなく野花を摘んで束ねたもの。野花は草で丁寧に束ねられていた。

 

 春から夏の終わりごろまで、その時々の野花を集めた花束が、いつも同じ場所に置かれているのを気にしてずっと見ていた。見るたびに心切ないけれど、少し温かい気持ちにもなれたのを覚えている。

 

 誰が手向けているのかわからなかったし、置くところを見たことはない。

 

 夏の終わりごろになると、その場所に花束は見なくなった。もう置くのをやめようと決めたのか、来られなくなってしまったのか判らない。その後もしばらく気にして見ていたけど、花束はもう置かれることはなかった。

 

 それからは僕が近くの野花を摘んで、一輪でも二輪でも置くようにした。もしその人がまた来た時に、野花が置いてあったらホッとするかな、そんな風に勝手に思ったからだ。

 

 しばらくして僕も花を置くことをあきらめた。人も戻り行き交うようになってきて、花も置きづらくなって来たからだ。

 

 ある時、よそから来ていたボランティアが立ち話をして、タバコを吸い笑いながらその場所を踏んだのを見て怒りが込み上げた。

 

 おい、今おまえが笑いながら煙草をふかして足を置いた場所は、知らない誰かの大事な場所なんだぞと、殴ってやりたい衝動にかられた。

 

 ふー、とため息をついて心を落ち着かせる。いや、彼は何も知らないし悪意があってした事じゃない。僕が怒るようなことじゃないから、そんな自分の感覚を変えていかなきゃならないとその時に感じた。

 

 僕でさえそうなのだから被災した人はもっと多く、そんな思いを沢山しているのだろうなと思った。

 

 まちの景色は塗り替えられてゆく。新しい道路や建物が出来て、かつての景色が記憶の中で、おぼろげに輪郭を失ってゆく。

 景色の記憶っていうのは忘れるのではなくて、上書きされて行くのだなとその時思った。新しいキャンパスに描くのではなく、古い絵の上から描きのせてゆく感じ。目の前に見えないけれどおぼろげに思い出せる。

 

 無くなったのではなくて、奥底に今もあるのだ。

 

 野花束のあった場所を、僕は今でも踏まずに歩く。