武田の重臣 馬場信春 | ヤスのエブリデイ

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馬場信春は戦国時代、武田信玄に仕えた重臣で
内藤修理昌豊、山県三郎兵衛昌景、高坂弾正忠昌信とともに武田四天王に数えられる。

生年に関しては、永正11年とも永正12年とも言われる。

ある書物によるものでは馬場氏は、清和源氏の中の摂津源氏、源頼光の曾孫の源仲政(馬場仲政)を遠祖とする源姓の氏族。摂津源氏の一派である美濃源氏の土岐氏の祖となる源光信(土岐光信)の孫で、美濃国土岐郡に土着した土岐光衡の一族で、甲斐国教来石村に移り教来石(きょうらいし)氏を名乗る。
信春もまた教来石景政と名乗り、後に馬場氏の名跡を継いで馬場信房と改名、さらに改名して信春となる。
通称ははじめ民部少輔でのち美濃守とした。

武田信虎の時代から武田氏に仕える。はじめは現在の山梨県北巨摩郡一帯に分拠していた武川衆の一員であった。

武田晴信の初陣である海ノ口城攻めに参加し、敵将、平賀源心を討つという功績を挙げたのち、天文10年の信玄の信虎追放計画に同調し、参加した。

信玄が武田氏の当主となり、その直後から諏訪と伊那への侵攻が始まると、これに参加して武功を挙げた。

このため信玄から、天文15年に信虎時代に信虎に当主・馬場虎貞が殺害されたために名跡が絶えていた甲斐武田氏譜代の名門で、馬場氏を継ぐことを許された。
このとき、同時に50騎持の侍大将となり、名も景政から信房と改めた。

その後も信玄の信濃攻めに参加して武功を挙げ、永禄2年にら120騎持に加増され、譜代家老衆の一人として列せられた。
永禄4年の川中島の戦いでは、上杉軍の背後を攻撃する別働隊の指揮を任された。
永禄5年には前年に隠退した原虎胤にあやかって美濃守の名乗りを許され、馬場美濃守信春と改名する。

永禄11年の駿河攻めにも参加し、永禄12年の三増峠の戦いでは、先鋒として北条軍と戦い、武功を挙げた。
元亀3年の信玄による西上作戦にも参加し、信玄から一隊の指揮を任されて只来城を攻略した。
三方ヶ原の戦いにも参加し、徳川軍を浜松城下まで追い詰めるという武功を挙げた。

元亀4年4月、信玄が死去すると、山県昌景と共に重臣筆頭として武田勝頼を補佐するが、山県と同じく、勝頼からは疎まれていた。

天正3年5月の長篠の戦いでは山県と共に撤退を進言するが容れられず、代わりの策も勝頼の側近に退けられるといった有様であった。ただし、これは資料にもとずく話ではなく、後世の作り話である可能性が高い。

5月21日の設楽原での織田・徳川連合軍との決戦では武田軍右翼の中核に配されるが、味方は敵の防御陣を突破できずにいた。

元々、数で劣る味方の攻勢が長続きする訳がなく、次第に崩れだした武田軍は、有能な人材を次々と失い、戦線は崩壊。

大敗を喫した勝頼が退却するのを見届けると、殿軍を務めていた自身は反転して追撃の織田軍と戦い、戦死した。
『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と評される最期だった。
これは同書にて「余多の者に手を負はせ、其の後、腹十文字に切り、比類なき御働き」と評された三好義継の最期と同等である。
享年61。

豊川(寒狭川)沿いの出沢(すざわ、新城市出沢)が戦死の地とされており、石碑もある。

なお墓所は、出沢ではなく長篠城址に近い新城市長篠字西野々の住宅地にある。

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