逆らってまた帰参 斯波高経 | ヤスのエブリデイ

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生誕 嘉元3年(1305年)

死没 正平22年/貞治6年7月13日(1367年8月9日)

改名 千鶴丸(幼名)→高経→道朝(法名)

別名 孫三郎、尾張守、七条殿、三条高倉殿、
修理大夫入道(通称)

戒名 東光寺(後に霊源院)殿道朝日峯

官位 尾張守、従五位下右馬頭、従四位下修理大夫

幕府 鎌倉幕府 室町幕府越前・若狭・越中守護

氏族 斯波氏(尾張足利氏)

父母 父:斯波宗氏、母:大江時秀の娘

兄弟 高経、家兼

子 家長、氏経、氏頼、義将、義種


斯波高経(しばたかつね)は、南北朝時代の武将、守護大名。

越前・若狭・越中守護。
足利氏の有力一門・斯波氏(尾張足利氏)4代当主。

元弘3年(1333年)の足利尊氏の挙兵に従って鎌倉幕府に反旗を翻し、建武政権において越前守護職を得たが、後に尊氏が建武政権に反するとこれにも従って北朝軍の有力武将となる。

北朝では北陸方面の司令官として活躍し、南朝軍の有力な司令官であった新田義貞を討つ功績を上げた。やがて観応の擾乱が起こると足利直義陣営に属して尊氏と戦うが、この間に尊氏、直義両陣営の間で離反と帰参を繰り返した。尊氏の死後、一時室町幕府の最高権力を得たものの、まもなく佐々木道誉らの策謀により失脚。洛中を落ちて越前杣山城にて失意の中病死した。

嘉元3年(1305年)に足利(斯波)宗氏の嫡男として誕生する。
高経がいつ頃家督を継いでいたかは不明であるが、父・宗氏が諸系図で「早世」とあることや、元亨3年(1323年)12月の北条貞時十三回忌供養に足利宗家の貞氏、足利三河家の貞義らと共に出席していることから、既にこの頃には足利尾張家の当主となっていた可能性がある。

元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の綸旨に応じた足利高氏(尊氏)に従って倒幕の兵を挙げ、六波羅探題攻めに参加する。
鎌倉幕府滅亡後に後醍醐天皇による建武の新政が行われると、越前守護職に補任された。

建武元年(1334年)、紀伊飯盛山の佐々目氏の反乱の際には、戦果の芳しくない楠木正成に代わりこれを鎮定した。

やがて尊氏が建武政権から離反するとこれに従って以後武家方の有力武将として各地を転戦する。

延元元年/建武3年(1336年)の新田義貞、楠木正成との間で行われた湊川の戦いにも山手軍の大将として参陣。
楠木勢の退路を塞ぐなど勝利に貢献する。
合戦後、尊氏が京都に武家政権を成立させ、後醍醐天皇が吉野に南朝を成立させて南北朝時代となると、北朝の越前守護として主に北陸方面で南朝方と攻防を繰り広げた。

湊川の戦い後、新田義貞が尊良親王、恒良親王の両親王を奉じて越前へ入国すると越前での戦況は激化。延元2年/建武4年(1337年)に、越前で高師泰と共に南朝方の金ケ崎城(福井県敦賀市)を攻め、両親王を擁した義貞、義顕親子を破る。

事実上の総大将であった義貞こそ取り逃がしたものの、尊良親王と義顕を自害させ、恒良親王を捕らえるなどの軍功をあげる。
その後義貞の巻き返しによって府中や金ヶ崎城を奪われたが、高経は平泉寺の宗徒を自陣営に抱き込んで義貞の攻勢を防いだ。

そして延元3年/建武5年(1338年)閏7月、越前藤島の灯明寺畷においてついに義貞自身を討ち取る大功をあげた、これを藤島の戦いと言う。
延元4年/暦応2年(1339年)からは義貞の弟脇屋義助が宮方の大将として立ち塞がり、一時は越前から加賀へ落ちるなど苦戦を味わったが、興国元年/暦応3年(1340年)に反攻をしかけ義助を美濃へ追い、興国2年/暦応4年(1341年)残る宮方勢力を討ち破り越前を平定した。

この間、嫡男の家長は奥州の北畠顕家への抑えと鎌倉に残った尊氏の嫡男義詮の補佐のため奥州総大将と関東執事に任命されたが、顕家の進撃を止められず1338年1月16日に戦死している(家長の子孫は高水寺斯波氏として紫波郡に土着)。

また弟の家兼は奥州の統治を任され、正平9年/文和3年(1354年)に奥州管領に就任。子孫は奥羽一帯に土着して大崎氏(奥州探題)・最上氏(羽州探題)となった。

足利幕府の内紛から発展した観応の擾乱が勃発すると、はじめ足利直義方に与してその有力武将となるものの、直義失脚後に尊氏方に帰順。

やがて直義が南朝に降伏し尊氏方に対して挙兵すると、これに呼応して直義方に復帰したが、直義の死後に再度尊氏方に帰順した。
この間に正平一統における南朝方の京都制圧においては義詮を助けて京都奪還に功をあげる。しかし正平10年/文和4年(1355年)、尊氏の庶子で直義の養子である直冬に呼応して三度幕府に反旗を翻し、今度は自身が京都を制圧するに至った。
その翌年の正平12年/延文元年(1356年)、軍勢の衰えた直冬方から離反してまたも幕府へ帰参するなど、叛服常なき行動を繰り返した。

正平13年/延文3年(1358年)、尊氏が死去すると剃髪し道朝と称して2代将軍となった義詮の補佐を行う。
正平16年/康安元年(1361年)に、それまで執事(後の管領)であった細川清氏が失脚して南朝へ降ると、一門の長老であった高経の影響力が強まり幕府の実権を掌握した。

高経は正平17年/康安2年(1362年)に4男の義将を執事(管領)職に就かせ、実権は自身が握って幕政を主導した。
また5男の義種を小侍所の頭人(後に侍所頭人)、孫の義高を引付衆に据えるなど幕府中枢を斯波一族で占めた。

高経政権下では防長の大名である大内弘世や山陰に強大な勢力を築いていた山名時氏を幕府へ帰順させることに成功するなど、幕府政治は安定化に向かっていった。

また高経は将軍の威信を高める為に将軍邸の造営費を諸侯に負担させたり、諸侯に賦課する武家役(税金)を従来の50分の1から20分の1に引き上げて幕府経済の充実化を図るなど、幕府権威の向上に腐心した。

このように将軍・幕府権威の向上に腐心した高経であったが、その強権的な政治は諸大名や寺社勢力からの反発を招くに至る。

特に高経の3男氏頼の舅であった佐々木道誉(京極高氏)は、かつて自身の推す氏頼を退けて義将を管領とした高経を憎んでいたため、両者は激しく対立する。
正平21年/貞治5年(1366年)8月、突如として将軍義詮より領国へ戻るように命じられ失脚した、貞治の変である。

後任の管領には道誉が推す細川頼之が就任したため義将の幕政復帰後も斯波氏と細川氏の対立構図は残り、3代将軍足利義満時代の康暦の政変へとつながっていく。

都落ちした高経は幕府の討伐軍に屈す事無く戦い続けたが、貞治6年/正平22年(1367年)に杣山城(福井県南越前町)で死去。享年63。法名は東光寺(後に霊源院)殿道朝日峯。

なお高経の死後、義将はまもなく赦免され幕府に復帰している。






斯波高経
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