数多くの伝説を残す 多田三八郎昌澄 | ヤスのエブリデイ

ヤスのエブリデイ

歌とゲームと野球と、歴史が大好きなヤスと申します。
日本史は毎日勉強中!
歌動画、ゲーム動画など、YouTubeでもいろいろ出してます!
URL:http://www.youtube.com/user/yasutfa

俺にとっては神様、L'Arc〜en〜Cielの大ファンでもあります!

多田 三八郎
photo:01




甲斐武田氏家臣で足軽大将。
武田信虎、武田信玄の2代に仕える。
通称は三八・三八郎、淡路守など。
諱は昌澄で、「満頼」としている書物もあるが文書上からは確認されない。
法名は宗樊。
子には多田常昌、多田昌俊がいる。
後代には武田の5名臣に含まれる。

摂津源氏一族の多田源氏後裔と称し、源頼光の孫の多田頼綱或は、源満仲の弟の源満季の子孫というが、系譜は詳らかではない。

『甲陽軍鑑』では、美濃国の生まれ、弓矢修行のため甲斐国に渡り武田信虎に仕え足軽大将となったとある。
晴信期にも仕え、原虎胤、横田高松、小幡虎盛、山本勘助とともに五人衆と称されたという。

確実な記録資料上においては天文16年(1547年)8月の信濃国佐久郡志賀城攻めにおいて活動が見られ、関東管領上杉憲政の援軍との小田井原合戦において板垣信方らと活躍している。
翌天文17年(1548年)には信濃守護小笠原長時との戦いにおいて信玄から感状を受けている。

三八郎が信濃虚空蔵山砦を警護していた際に地獄の妖婆「火車鬼」を退治したという伝説や、湯村温泉で天狗を倒した鬼の湯伝説が残っている。
他多数伝説あり。

永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いの頃は、既に病に倒れており、自分の代わりに息子を参戦させている。
その2年後の永禄6年(1563年)に病死。
享年は不明だが、かなりの高齢とされている。
墓所は長野県富士見町の常昌寺。

家督は常昌が継いだが、設楽原で戦死したため、その後は昌俊が継承。



iPhoneからの投稿