お別れ | いくらたまねぎねぎうなぎ

いくらたまねぎねぎうなぎ

大仏山公園日記、サイクリング日記、ハードオフ仕入れ日記、DIY日記を主に書いてます。
以前は日記のように毎日書いてました。今は書くことがある日だけ書いてます。
日記感覚で書いてるので他人からすれば“とてもつまらない”ブログだと思います。

親戚が亡くなった。

 

日に日に弱ってた。

入院の前日に急にガクッと弱った。

入院し緩和ケア。肺の状態がとても悪いそうで。

入院の翌日に亡くなった。病院から電話もらって急いで病院へ向かったけど間に合わなかった。

ほんの少し前まで本当に苦しんでたのか?と思えれないような穏やかな表情をしてた。

 

 

7月末か8月初旬、松阪の病院まで送迎の日。

親戚が自宅から私の家まで来ようとしてた時に自分家の庭で転倒した。

腕を擦りむいてた。

それ以外にも様子がおかしい。

車に乗り込むのも介助が必要。息も荒い。

返答もおかしい。

病院へ行くのをやめ、訪問介護に相談した。

すぐに家に来てくれた。

すぐにでも傷口の処置が必要らしい。

でも私の車で行くのは無理のようで。なので介護タクシーを手配してもらった。

家族が付き添いで病院へ行って治療してもらった。

で、松阪の病院へ通院するのももう無理な感じなので在宅訪問医療に切り替えてもらった。

少し前から話はしてた。

 

近所の病院の通院日も本人はいかず私が代理で処方箋だけもらいに。

それが通院してた病院のお世話になるのが最後になった。

以降は同じく訪問在宅医療に。

 

大丈夫か!?と言うぐらいの勢いでアイスクリームを食べてたのに、段々と食べ物を食べれなくなり、ゼリーやメイバランスのみに。

 

段々と体も動きにくくもなって・・・。

 

本人は「入院は嫌だ。家で過ごしたい」と言う感じだったけど、最後は自分から「入院したい」と。「入院日まだか?」と早く入院したい感じだったようで。

 

そして、やっと入院出来たと思ったら、入院した翌日に亡くなったと・・・。

 

 

大腸ガンから始まって、数カ月後に転移が発覚して、抗ガン剤治療。

抗ガン剤治療も一番弱くしてもらってたけど、それでも耐えれないそうで、途中でストップ。

緩和ケアに切り替えようと進めてて、片足がパンパンに。

片足の付根のリンバ節にもガンの影響が。

放射線治療をしたけど意味がなかった。その頃からジワジワと弱っていったのだ。

 

 

病院で亡くなって家に帰ってきた晩、疲れて早めに寝ようとベットで横になった。

なら夢に親戚が現れた。

私の家の居間の真ん中でこちら向いて正座して座ってる。

白装束の衣装で。

「〇〇(妻)をお願いします。」と永遠に同じことを繰り返して土下座してる。

居間からフワッと親戚が消え、目が冷めた。

ジーンと来て涙溢れてきてなかなか寝られなかった。

 

 

病院送迎などでグチグチと過去にいろいろ記事を書いてたけど、やっぱお別れは寂しいね。

数ヶ月前までは病院送迎出来る状態で普通に会話もできたのに、最後頃は・・・。

会うと「あ〜えら」と・・・。顔の表情もぜんぜん違うし。

顔がむくれてパンパン。

 

 

寂しかった。

以前は嫌になるほど呼ばれたのにそれが無くなって・・・。

嫌になるほど、なんかあると電話してきたけど、電話すら出来なくなって・・・。

病院送迎、嫌だったけど、いざ亡くなると、思い出の一部なんだよね。

嫌なことも、今は全部思い出。

 

 

私が最後に会話したのは、亡くなる数日前。

家の庭で庭木の剪定をしてたら、親戚が窓から顔を出して「トイレの電気がつかない」と。

苦しい中、必死で私を窓から呼んだんだと思う。

ちょうど予備の電球があったのですぐに交換しに行った。

チューブで酸素吸いながら、苦しそうな中、会話した。

「あ〜えら」今日も出た。

「なと何のかな?」と言われても・・・答えれなかった・・・。

それが最後の会話になってしまった。