辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」 | 行雲流水的くっぞこ

辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」

 2月9日は手塚治虫先生の御命日であり、「漫画の日」でした。手塚先生がお亡くなりになって30年近く経つんだな…と。

 手塚先生の七回忌の場面から始まるこの自伝的な漫画の作者の辰巳ヨシヒロ先生もお亡くなりになられて来月で三回忌を迎えます。

 辰巳ヨシヒロ「劇画漂流」


 辰巳ヨシヒロ先生は昭和10(1935)年大阪生まれ。昭和29(1954)年「こどもじま」で漫画家デビュー。平成27(2015)年逝去。


 辰巳ヨシヒロ先生はいわゆる”劇画”の名付け親であり、”劇画”の生みの親の1人です。

 この「劇画漂流」は、辰巳ヨシヒロ先生の自伝的漫画です。主人公の名前を、辰巳ヨシヒロ→勝見ヒロシ と変えてありますけど、それ以外の漫画家や雑誌編集者の名前はそのまま描かれています。


 平成7(1995)年~平成18(2006)年まで、古本屋「まんだらけ」の冊子「まんだらけマンガ目録」「まんだらけZENBU」に連載。


 勝見ヒロシ少年(=辰巳ヨシヒロ)が昭和20年代小学生で手塚漫画に触れて大ファンになり、19歳で大阪の出版社からデビュー。劇画誕生、そして上京。劇画家の集団「劇画工房」結成から解散まで。昭和34年くらいまでのことが描かれています。

 面白いんですよ!

 「劇画漂流」を読んで思うのは、みんな若かったという、至極当たり前の感想なんですけどね。

 辰巳先生はじめ、さいとう・たかを先生、佐藤まさあき先生など”劇画工房”のメンバーは全員昭和10年前後の生まれ。だからデビューは20歳前だし、この漫画のラストシーンの”劇画工房”解散の時点で全員20代前半。彼らを育てた出版社「日の丸文庫」社長・専務の山田兄弟でさえ20代です。


 こういう自伝的な漫画でいうと藤子不二雄A先生の「まんが道」が思い浮かびます。

 「劇画工房」のメンバーは、藤子不二雄先生、寺田ヒロオ先生、赤塚不二夫先生、石森章太郎先生などのいわゆる「トキワ荘」グループ(新漫画党)とほぼ同世代(藤子先生は昭和9年生まれ)。しかもどちらも手塚漫画の大ファンであり、根っこが同じなんだなと。

 「まんが道」の中で、デビュー直後の足塚茂道(=藤子不二雄)が劇画みたいな漫画を描いて、それを読んだ出版社の編集者から、「これは漫画なの?」と言われてしまうエピソードを思い出します。辰巳先生のデビューと同時期のエピソードですが、東京の雑誌社と大阪の貸本出版社の違いなのかもしれません。


 実兄も後に桜井昌一として漫画家デビューするんですが、目指す漫画家としてのスタンスの違いからの色々な葛藤や様々な助言などいいコンビで興味深いです。二人とも漫画家としてデビューして劇画の旗手として活躍しますし、天才兄弟ですよね!


 劇画の誕生母体となった”貸本”と”貸本業界”ですが、1960年代後半に衰退したので、1970年代の生まれである私は、子供の頃には周りに”貸本屋”が無くて、その存在自体を全然知らなかったんです。

 1990年代の大学の頃、水木しげる先生のインタビューやエッセイを読んだり、サブカル雑誌「クイックジャパン」が創刊されて、いわゆる「消えた漫画家」と題した一連のルポや竹熊健太郎さんのインタビュー、クイックジャパンで出版された徳南晴一郎先生などの貸本系マンガの復刻を読んだり。

 そういう事で、以前は”貸本屋さん”というものがあり、貸本専門の出版社もあった、という事を初めて知ったんですよね。

 …そう言えば近くに”貸本”という看板が出たお店があるな…と初めて気が付いたくらいでした(その店には結局行かずじまいでした)。


 劇画にも詳しくなかった当時の私は、ちょうど佐藤まさあき先生の自伝「劇画の星をめざして」が出た頃で、それを読んで辰巳ヨシヒロ先生はじめ劇画家の皆さんを知ったんですよね。

 辰巳ヨシヒロ先生、佐藤まさあき先生、どちらも劇画の誕生に立ち会われた方々で、「劇画工房」のメンバーですけど、立場の違いもあって同じ出来事であっても別な側面が見えて来て興味深いですね。


 年表を見ると、辰巳先生は最晩年、「劇画漂流」の後の話を描く「劇画漂流 第二部」を執筆されていたそうですけど、平成27(2015)年3月に逝去されたので、それはどうなったんでしょうかね。