隅っこの本棚。
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短編小説『海鳴りの日』②



 二ヶ月ぶりに再会した姉は少しやつれていた。風邪をこじらせてしまったようで、マスクを着用していた。

 アパートの中の変化は少ない。段ボールがなくなった程度で、若干味気ないまま時間が止まっていた。

 ここに来ればやることは変わらない。姉と肩を並べ夕食を作る。台所越しに見える二人の生活を眺め、とりとめのない会話をする。

「花でも飾ればいいのに」

「あの人は帰りが遅いし、見てあげられるのが私だけじゃ、お花も可哀想」

「でも、造花くらいあった方が。何だか寂しいよ」

「そうだね。造花だったら、枯れないね」

「枯れないとか、そうじゃあなくって。あの人はまだ写真撮ってるなら、それ飾ったりしないの?」

「あの人は、そういうことをしない人だから」

 写真を撮るだけで満足らしい。私には理解できないが、そういう人もいるのだろう。

 しかし、依然として変わらない姉の住まいに、違和感を覚えていた。家にいた頃の姉も派手な装飾をするまではないが、細かいこだわりがあり、このように物を置くだけのいい加減さはなかった。箪笥一つ取ってもベランダの傍ではなく、私の知っている姉であれば寝床の近くに配置していることだろう。時折生じた居心地の悪さは、ここに姉が住んでいるという感触がないことにあった。もしも私の隣に姉がいない状態で、ここが姉の住まいだと教えられても、私は信じないだろう。

 これは彼の生活なのか。姉はそれに従って、自分を殺している。彼が姉を支配しているようで、やはり気分の良いものではない。

「お姉ちゃんは、あの人といて幸せ?」

 姉が冷蔵庫を閉める動作と、私の声が重なる。振り返る顔は私の好きな姉ではなかった。

「ええ、勿論」

「あの人の何処が好き?」

 あの人の目はいつもまっすぐだから。

 本当にそれだけ?

 吐き出しそうになるものを必死でこらえる。分からないものをそれ以上教えて貰った所で、きっと理解には至らない。彼を語るときの姉は私の知る人ではなく、彼女だから。私はその人を知らず、彼方にいるため届くはずもないのだ。



 彼女たちの感情は、言葉にしてしまうと非常に安いものになってしまう。私は身を以て知っていた。

 私の何処が好きなの?

 忘れもしない彼女が旅立つ前夜、灯を付け忘れた彼女の部屋で、彼女は尋ねた。

 慌てて打ち明けた私の言葉は、幼い感情を乗せただけで何一つ伝わらなかった。

 私も園ちゃんのことが好きよ。

 果たして、当時の私は彼女の言葉の意味を知らず、頬を触れる左手だけに集中していた。親指がこぼれた雫を拾い、私は確かに彼女と体温を共有しているのだと思った。

 言葉は嘘になる。私たちは交わらず、同じ言葉のみで理解し合ったと錯覚していた。その代償が今であれば、私は初めから彼女を好きにならなければ良かった。しかしそれも不可能だと、自覚している。姉妹で彼女は常に私の先にいた。彼女が経験した全てが私に上書きされ続け、私は彼女に添うように生きてきたのだから。

 彼を殺そうと思い立った。その日もアパートに訪れると、姉の姿がなかった。図々しい私は合い鍵を貰い受けていたので、遠慮なしに上がり込んだ。そこで、魔が差した。彼の写真を見てみようと、考えた。彼がどのような目で姉を見ているのか、気になった。姉が好きになった目とは、どれ程のものか。試してみたい気持ちになった。

 それを確認し、私が少しでも理解できれば、彼のことを認めようとも思った。本当に普段の私ではなく、別の何かが動いていた。何処に閉まっているのか分からないが、家具が少ないために直ぐ発見した。丁寧にアルバムに収められて、大学時代のものもあった。私が知らない場所で、私の知らない姉がいた。彼ではない人と仲良くする姿もあり、やはり知らない顔を浮かべていた。三冊ある内の、二冊は似たようなもので、心は動かなかった。そもそも私の知らない人がいるようで、不思議だった。

 三冊目は息を呑んだ。知らない姉のはずが、私の想像したことのある姿をしていた。私が一番混乱していたとき、姉を見る度に生じていた下心の正体が全てあった。

 つがいになっている男の身体は、彼だろうか。覆い被さる姉は裸で、レンズを覗き込む表情はやはり私の知らない顔をしていた。笑っているような、泣いているような、焦がれているような、困っているような、感情がない交ぜにされ言葉に表れない。写真の中で行われているものが何であるか、知らぬほど私は幼稚ではないし、夫婦である以上それなりの営みをしているものと、黙認していた。しかし、何故このような形で記録されているのか。平常な夫婦とやらは、わざわざ自分たちの恥ずべき行為を残すものなのか。

 このように私に見せつけるため。それは違う。そこで、私は姉の言葉を思い出すのだった。

 あの人の目はまっすぐだから。これがまっすぐな目なのか。それならば、今私の中で暴れ回る感情は何だろうか。怒りか、憧れか。

 同じような行為を繰り返す写真が続く。しかし変化が起こる。日付が現在に近づくにつれ、姉の身体に傷が浮かび上がった。青い痣だ。更新される度に増え、もはや全身が赤く青く染め上がる。漸く姉の顔だけの写真が見つかるが、異常さは際立っていた。口周りが赤く濡れていた。並べられた歯に欠けた部分が見つかり、完全に折れているものもある。改めて日付を確認すると、マスクをかけて現れた日が思い出された。

 暴力に染まる写真は未だ続いた。苦しむ姉の顔も、何処かで知らない色があった。これは、助けを求めているのだ、と、汚辱の中で微笑む姿に理由をつける。痛くて喜ぶことは有り得ない。彼の良心に訴えかけているのだ。それでも彼は止めなかった。それでは、彼は姉にとって害でしかない。殺さなくては、姉のために。

 隠れるのに最適な場所を探し始めた。


 一つの部屋が物置と化し、段ボールもいくつか残って、片付けきれなかったものが押し込まれていた。私はそこで身を潜めることにした。穴あき包丁を一本拝借し、機会が来るのを待つ。彼女が帰ってくる音がした。それに続いて、彼の声も聞こえた。かなり息を荒げて、興奮していた。彼女が拒む声をあげると、彼が怒鳴った。倒れる音がする。姉が張り倒されたのだろう。そのままもつれるような音が続く後に、布が破かれたようだ。彼の声に混じって、姉の吐息が聞こえた。ぶつ切りの音楽のように彼女が喘ぐ。私の知らない彼女の声だ。包丁を持つ手が震え、私は昂ぶる感情を堪えた。喉が渇く。自分の動悸がどこから来たものなのか、軽く目眩を覚える。立ち上がり、物置の扉を僅かに開けた。彼女たちはリビングの真ん中で繋がっていた。彼が上になり、彼女に傷を差し込んでいる。痛い痛いと彼女が叫んでいる。煩いと彼が彼女の頬を打つ。彼らの近くにカメラが設置され、断続的にシャッターを鳴らす。陵辱の光景を記録している。彼の二つの目が汚される彼女を見て喜んでいる。黙れ、と彼が彼女の首に手をかけた。姉の声ではない、蛙を潰した声がした。彼の下にいるのは誰だろうか。こちらに向けた両足をばたつかせ、何かを訴えかけている。首を絞めながら彼の臀部は尚上下運動を繰り返している。蛙の顔が青ざめ、泡を吹き出した。足の動きが次第に弱まっていく。比例して、彼の動きが速くなる。ああ、そうだ、蛙は彼女だ。熱に浮かされるような感覚が消え、貧血のような衝動が私の背中を押す。勢いよく扉を開け、彼らに近づく。彼の背中に辿り着く瞬間、漸く彼がこちらを仰ぐ。彼と目が合う。血走る目、彼女が好きだった目が私を覗く。そこに振りかぶった包丁を突き立てる。彼の左目と眉間の間に刃が沈んでいく。彼の身体がよろけると、彼女と私の目が合う。蛙が消えて、咳き込む彼女が、信じられないものを見るように私を睨んだ。ああ、と彼女が叫んだ。彼を押しのけ、彼女が私に掴みかかる。胸ぐらを掴み、汚れた顔で怒鳴っている。揺さぶられ、罵られているようだが、聞こえない。手を離し、彼女が彼に縋りつく。彼の頭を押さえ、無理矢理包丁を抜くと鮮血が彼女に降りかかる。ああ、ああ、と声帯が壊れたように叫び続ける。彼女の肌が赤く染まっていた。彼の液体を浴びる結果になってしまったことを私は落胆する。彼との性交を阻めなかった。彼の股間のものをさすりながら彼女は泣いている。しかし彼は二度と彼女の首を絞めなかった。彼はもはや赤い精液を振りかけるだけの人形に成り下がっていた。彼女は私を見てくれず、ずっと彼を見ていた。嘔吐して、泣いて、口づけをしていた。

 私の知らない彼女は私の知らない彼と抱き合っていた。

 私は彼らの愛が分からなかった。

 窓の向こうが騒がしい。遠雷の音はここからでも聞こえるのだと、初めて知った。



 部屋の処理は私が行い、彼の遺体は解体してから海に流した。彼が残した写真を警察に提出し、彼女が度重なる暴力に限界を感じて殺した、という説明をした。彼女は誰の言葉も聞かず、延々と何かを呟くだけの抜け殻になった。精神を来したのだろうと、彼女は家で診療することで、安定してから取り調べを受けるという形になった。

 私の望み通り、彼女は家に帰ってきた。しかし、身体だけだった。

 両親も、私にも反応しない。寝ているのかも分からず、ずっと部屋の隅で天井を眺め、生活という行為を忘れているようだった。ただ一つの日課として、夕方になると家を抜け出し、海に向かっていた。嵐の日も、彼女は休まず海を訪れ、日が落ちるまで帰ってこなかった。

 彼の遺体を流したことを彼女に教えていない。しかし彼女は海を見つめ彼の名前を呟く。彼の帰りを待つように。


      ・


ねえお姉ちゃん、私だよ。えずく彼女に私は言った。「私、お姉ちゃんが好きだから、だから」

 彼らの愛が普遍でなければ、私の愛もそうだった。私の愛が浸食されたから、彼女を守ろうとした。それは彼らの愛を壊してでも、私のものだけは残しておきたかった。

 彼女は彼の名前を呼び続ける。私の愛を見つめてくれない。

「あの人のお姉ちゃんはここにはいないんだよ。私のお姉ちゃんがここにいなきゃ。どうしてあの人のお姉ちゃんがここにいるの? ねえ、どうして?」

 私の前では私の知っている彼女がそこにいるはずだった。私の知らない彼女は彼の前にしか現れないはずだから。

 しかし、私の前で泣いている彼女は私の知らない彼女でいる。私が助けたのはどちらの彼女だったろうか。

 この人が姉でなければ、私は彼女を愛することは出来ない。

 海鳴りは続いている。

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