隅っこの本棚。 -4ページ目

短編小説『気高いひと』①



 奏さんが子爵様の一人息子と結婚してから、会えないと思っていた私の危惧も杞憂となり、一週間に一度は目見えることが出来た。奏さんの住まいはすっかりお相手の屋敷となってしまったが、その方のお心が広いのか、私のような者を拒まず、部屋まで案内してくれた。奏さんからも、私のことは「学生時代の一番の親友」と紹介されているので、それならば、と快いお持て成しをしてくれる。それが少し恐れ多く、私はただ奏さんと会いたいだけであるので、気が引けるのだが、遠慮する訳にもいかないのだった。勿論男爵様の娘である奏さんも裕福であり、暮らした屋敷も広かったのだが、身分一つ高いだけでここまで差があるものかと感嘆する。奏さんの屋敷は都内の中心にあるため、建物に囲まれ少し窮屈な感じが否めないのに対して、ここは立地も良いようで、山間に建てられ庭も含めるとかなりの面積で、もはや別荘のような印象すら受けた。少し都会を離れれば、この程度の土地はいくらでもある、と奏さんの夫である、米原さんは仰った。初めて奏さんの屋敷を見たときも開いた口が暫く塞がらない思いをしたので、これも例外ではなかった。それ以上の衝撃を受けたといっても、差し支えない。何処にでもいるような庶民の私が、こうして招かれるだけでも、幸いな人とされる。自分の日頃の行いが良かったのか知らないが、奏さんと出会ったことが全てであり、それだけでも私は誰よりの幸せを得たと感じている、それだけで本来は十分であり、時折贅沢が過ぎると我ながら思った。

 奏さんの結婚が決まったと教えられた初めは、これ以上ない不幸に落とされた。大丈夫よ、そうなっても私たちが離れることはないから、と奏さんは諭したが、それを素直に信じられる筈もなく、当時の私は駄々をこねて困らせていた。奏さんと離れることが嫌で嫌で、それならいっそ呆れられて捨てられた方がましだと、半ば自暴自棄でいた。年を取れば、彼女の生まれの境遇などを慮れば仕方のないことであり、私の我侭は非常に迷惑な話で、当時の自分が恥ずかしく映り、責め立てたい気分に駆られる。奏さんもいずれ、誰かと結ばれ家庭を作らなければいけない。私が物心をつく前からそのような教育を徹底され、米原さんとも私に打ち明ける前から、知った顔であったという。立場が違うのなら思想も違うが、奏さんは時が来るまで、私の考えに合わせてくれていたのだった。私が綺麗と云ったものに賛同して、美しいと云ったものに共鳴してくれた。何て、恥ずかしい話なのだろう! たった一歳の違いで、子どもと大人の差がこうも開くものなのか、同時に庶民との差も思い知らされ、私の内省は奏さんが結婚して暫くしてからも、中々消えなかった。私がこうして奏さんと今も話せるまでには、私が全てに整理がつくまでと、かなりの時間を要していた。奏さんは、私がやって来るのを一日も早く待ち侘びていた、と云う。お世辞かも知れないが、今はそれを疑うよりも、その優しさを与えてくれることだけでも、私は嬉しかった。

「結婚した、といっても、結婚した後だと暇で暇で仕様がありませんの。学生の頃は、授業に追われてあんなにも忙しかったのに、遠い話みたい」

 割烹の時間などもまるで無駄になったようで、食事は召使が用意をしてくれるので、花嫁修業で役に立ったのは礼儀作法くらいだ、と云う。私の母は毎日工場通いで手を汚して帰ってくるので、また大違いだった。

「だから、貴女が来てくれると嬉しいの。お話し相手がいないのだもの。ねえ、これからも顔をお出しになってね」

 私がお暇をする度にかけてくれる言葉は、呪いのように私の心身に染み渡る。魔法にかかったような私は、また何日か経つと、のらりくらりと米原様のお屋敷に出向くのだ。ご厚意は更に、来るときには連絡して欲しいとのことで、そうすると毎度私の家まで自動車が遣ってきて、屋敷まで運んでくれる。帰りもまた、黒塗りの自動車で、隣には奏さんが同席して送ってくれる。夢のような特権を得た私は、電話を繋ぐところから別世界に行けるのだ。何で庶民の私が麗しい奏さんなんかと仲良く出来るのか、あのような何処にでも転がっていそうな小娘が身分以前の問題であると、学生時代から聞き飽きた陰口も、常に慰めてくれた。

「あら、貴女のお顔はとても可愛らしいわよ。少し丸い顔立ちも、林檎のような頬も、お人形さんのような御河童も、皆可愛らしいわ」

 それは殆どの庶民の女の子に該当される、と私が反論すると、

「貴女だからいいのよ。貴女には、他の子と違う気品さが兼ね揃っているわ。だから、そうね、気高い女の子がそのまま、庶民の格好をしているというのかしら。気を悪くしたら御免なさい。それでも、私はその貴女の隠れた魅力に惹かれたの。貴女がそれでも信じられないようなら、この屋敷の方に訊いてみなさい。普通の子だったらここの絨毯を踏めないわ。それは身分云々じゃあない、その方に備わった気高さにあるのよ」

 私は奏さんに良く、貴女は気高い少女よ、と諭された。生まれもご先祖様も大した身分でない私に、どうしてそう云えるのか、教養がない私にはそれを理解する力はないが、奏さんからすれば、それは生まれ持ったもので天命に似たものだと云う。私は奏さんの言葉は絶対だと信じているので、素直に喜ぶ事しか出来ない。奏さんの考えは私には及ばないと、それは出会う前から決まりきった物であり、それを今更ない物ねだりするつもりはない。私は奏さんが私を対等に扱ってくれているだけで、十分なのだ。


 初めて奏さんに出会ったとき、入学して間もなく右も左も解らない私に対して、優しく手を差し伸べてくれた。長い黒髪を一房の三つ編みにして、首を傾けると一緒に垂れ下がるそれが綺麗に映った。私は割烹を行う教室が解らず、奏さんは私の手を引いて案内してくれたのだ。果たして教室は直ぐに見つかった。手を離されて、私の手の中に花の匂いが残った。私がそれにうっとりすると、奏さんは面白そうに笑うので、恥ずかしくなって俯いてしまったが、告げられた言葉は意外な物だった。

「……お気に召しまして、その匂い?」

 芳しいヘリオトロープの匂いに包まれて、私は一瞬で奏さんの事が好きになった。校内で奏さんを見かけたらそれから目を逸らす事が出来ず、体育の授業時にすれ違うと振り返って暫く立ち止まってしまい、私の頭の中は奏さんの事で一杯になってしまった。私の告白は、一世一代の博打だった。止めておきなさいよ、相手はあの松倉様よ、との反対を押し切り、紫陽花が咲き渡る六月の雨の日、奏さんの下駄箱の中に手紙を入れた。迷いに迷って二枚に纏めた手紙には、初めて会った頃から貴女のことしか見えなくなった、どうかどうか、貴女が宜しければお姉様とお呼びしてお慕いしたいと、正直に書いた。それで一笑にされて断られるなら諦めよう。馬鹿にされても仕方がない。私の中ではあわよくば親しくなりたいと一心のみで、悪い結果などという、それ以上以下は考えなかった。私は、正直なまま奏さんと向かい合った。私の友人を通して渡された手紙には、時間と場所の指定が記されて会うことを約束された。未だ返事を受け取ってもないのに、私は舞い上がっていた。彼女の字がある手紙を頂いただけで、満たされた想いになっていた。私たちは、初めて出会った廊下で待ち合わせをした。窓からは雨が止まずに勢いを増していた。私の胸も高鳴り、奏さんが現れるとそれはまるで大太鼓のように鳴り響いた。この耳を支配する合唱は、雨音なのか心音なのか知らん、奏さんと私の距離が近付く度に高鳴ると同時に体温まで上がってきて、意識が浮かぶようだった。奏さんは私を確認すると、少し驚いた顔をして見せた。

「ああ、貴女は、あの時の。お名前を聴いていなかったから、貴女とは知りませんでしたわ」

 これ以上の至福はあっただろうか! 奏さんは私の事を覚えていてくれたのだ。それだけで、私は予期していた懼れ全てを忘れてしまった。もうどうでも良い、奏さんが私の存在を認めていただけで、完結し切っていた。だから私は、一回目の奏さんの返事を聴き逃していたのだった。どうぞ、宜しく、その爽やかな声が耳に入った時、それは届かなかったのかと誤解された物であり、二度目の返答だった。私は、間を置いてからその答えを反芻した。それが了承を意味する物と合点いくまで、かなりの遅れを取ってしまった。奏さんが受けてくれるとは思ってもいなかったので、余りにも予想外でこれは夢かと疑ってしまった。

「……良いのですか?」

「ええ、嬉しいですわ。貴女のような可愛らしい妹が出来るなんて」

 念を押してもどうやら幻聴ではなかった。それが切っ掛けで、奏さんと私が親しくなったとは、誰しも驚く真実だろう。誰よりも私自身が未だに信じられなかったので、無理もない。それから今に至るまで仲良くしてもらっているが、それも嘘のような話に思われ、学生時代も初めは信じてもらえていなかった。からかっていた友人たちも、私が駄目元であった事を知っているからこそ、この顛末は番狂わせなのだった。最も危惧されていた、卒業後も、このようにして解決されたので、もはや私の幸福は途切れる事がなかった。奏さんの傍にいられる、それ以上の至福を知らぬ私は、きっとこれからも幸せな私でいられる。奏さんとの日々は永遠のように、新しい思い出が摘み上がっていくだけなのだ。