隅っこの本棚。 -3ページ目

短編小説『気高い人』②

「面白いことをしてみようかしら。これから私たちで乞食の真似事をしてみない?」

 或る日、奏さんは突然そんなことを持ちかけた。不思議がる私に対して、奏さんはさも面白そうにして、微笑んでいた。どういうことかと問い掛ければ簡単な事で、薄汚れ布を纏うようなみすぼらしい格好をして、少し顔に泥を塗ったりする、という遊びらしい。いくら私でも最低限の生活を送っているので、物乞いの真似事は若干躊躇ったが、彼女の要求ならば頷くしかない。何処から用意したのか、彼女は触れる事すら避けたくなるような程埃や泥で汚れた布と、バケツ一杯の泥酔を女中に持ってこさせた。部屋を汚しては堪らないと絨毯の上にビニル製のシートを敷いて、私たちは裸足になってそこに立った。

「浅草の街角で、見たの」

 物乞い同然の少女達を、自動車越しから眺めたらしい。自分は決してあのような場所には行けないからこそ、興味を抱いた。あのように暮らしている少女たちは、何を思っているのだろうか、と。

「生きるための術でしょうか。あの子たちは、一日を過ごすだけでも精一杯だと聴くわ。私はそうじゃあない。生まれたときから、貧しい思いをしなかったから、欲しい物は何でも得られたわ」

 だから、味わってみたいのだという。貧困というものを、ひもじいという想いを。

「貴女だって、そこまでじゃあない。でも、是非付き合ってもらいたいの。貴女も気高い人だから。どんな境遇でも、気高くなれる人だから」

 いくら身なりが酷くても、自分の気品は見出せるのか。それを知りたくなったのは、私と付き合うようになってからだ、奏さんは打ち明けた。

「貴女は、私と全く違った立場なのに、どうしてこんなに眩しいのでしょう。そんな貴女が私は好き。私は貴女が持っている気高さが大好きなの。だから今度は、私は私を知りたくなった。私はどの程度か。出来ることなら、貴方に見てほしいの。私がみすぼらしくなる姿を。それで、私に教えて頂戴。私の気高さはそこにあるかどうかを」

 もはや、私はただ見届けるだけで良い、奏さんが物乞いの格好をする様を。突然のことで戸惑ったことは当然だが、それ以上に彼女にそのようなことをして欲しくない、という気持ちが先に出た。私が一番奏さんの気品の高さを知っているから、どうか進んで自らを落とすようなことをして欲しくない。しかし彼女は、どうしてもと云って聴かない。終には涙を浮かばせて懇願してくるので、私も止めようがなくなった。私は、召使に手伝わせてみすぼらしくなっていく奏さんを見守った。裸にされ白い肌が顕わになる、初めて見た彼女の裸体に胸を高鳴らせるが、それもすぐに掻き消された。女中はまず、白い雑巾を泥酔に浸からせぎゅっと絞り、少し滴る状態で奏さんの身体を拭き始めた。綺麗な肌に茶色が染み込み、雑巾が往復されると汚れが増していく。腕、首、胸、腹の順番に泥が行渡り、下半身に及ぶ。少しでも私が目を瞑ろうとすると奏さんに叱られ、私は下唇を噛んで耐えた。爪先を終え、全身が泥まみれになると、また雑巾をバケツに入れる。湿った雑巾は次に、奏さんの髪に触れた。思わず叫びかける喉を押し込めると、却って吐き気が戻ってくる。手入れをされて絹のようだった彼女の黒髪が、汚される。染み渡る泥酔は繊細な髪を束にして、その先から淀んだ雫が落ちる。前髪から垂れた水が目鼻の筋を伝い、泥化粧を作っていく。髪全体に染み込むと、女中はそこにドライヤーを吹き掛けた。流れる糸のようだった髪が固まり、不揃いになる。変なところで浮き上がったりなどして、ぼさぼさにされていく。顔にかかった泥が、熱風にさらされて肌に染み込んでしまう。彼女の全身が泥まみれになった。手に触れることすら躊躇うほど、彼女は汚くなっていった。自分の手を眺め、それでも奏さんは笑った。自らの臭いにやられたのか、顔をしかめ身体を震わせる。その身に包まれるは例の汚い布切れで、それが彼女の小さい身体を包み込み、一周して、肩にかけられた。完成した。見るからに嫌な匂いが漂ってきそうな格好をした、奏さんがいた。女中に鏡を持ってこさせ、我が身を映すと再度微笑んだ。

「まあ、本当にみすぼらしい。これじゃあ、みっともない乞食ね」

 自分に対してそんな暴言を投げかける彼女に、耳を塞ぎたくなりながら、私は手招きされて近寄る。泥の匂いが、はっきりと私の鼻をつきぬけた。

「どう、私は?」

 問い掛ける彼女に、私は首を振った。見たくもない姿を目前にされて、その上で感想を云えなんて残酷すぎる。見据えなければ裏切ることになる、しかしこの仕打ちに、私のやりきれない想いは何処にぶつければいいのだろうか、悔しさが込み上げて感情が抑えきれない。ここで一言でも発してしまうと、私はおかしくなってしまう。

「黙っていても解らないわ。ねえ、こんな姿、どう見たって酷いものね。それでも、私にはあるのかしら? こんなになっても私はちゃんと、輝いているかしら?」

 放心気味に頷いた。何度も頷いた。彼女の求めている答えだけ提示するため、最後の意識を使って彼女への肯定を顕わにした。彼女は喜んだ。ああ良かったと、同時に安心していた。私にも、生まれながらにしてちゃんと持ち合わせていたのね、そんなことが、私に解る筈がないのに。彼女は普段のまま、綺麗な格好をして綺麗なままでいることで、気高くいるのだから。醜い姿にされ、それを美しいと答えられるほど、私は頭が良くない。何故そんなことに関心を持ってしまったのか、一生知ることもなかった世界に踏み入れて、私を驚かせるつもりだったのか、趣味が悪い。私の答えに気を良くしたのか、写真屋を屋敷に呼んで、その姿を撮らせた。自分の目でも確かめたいと、醜い姿を思うまま撮らせ続けた。当然この日のことは、居合わせた女中も含めた、私たちだけの秘密となった。この秘め事はこれっきりだと思い、私も忘れることに努め、こびりついた汚い彼女の姿を掻き消し、次招かれた日は以前のことがなかったように振舞った。私はただ、憧れの人である奏さんと会話ができるだけで良い。それなのに、あろうことか奏さんは例の戯れを非常に気に入ってしまったのだ。来る日もまた、奏さんは乞食の格好をしたい、と私に云った。そして女中を呼んで、あの布と泥水を持ってこさせ自らの身体に染み付かせる。私は何もしなくてもいいからと、その様子に目を逸らさずに耐えなければいけない。彼女の変わった遊びは三回繰り返すと激化してしまった。髪に塗りたくっていた泥を、馬糞に変えた。ただでさえ酷かった臭いを、更にきつくしてそれを喜んで髪の毛に塗した。もはや近寄らずとも漂う悪臭に、私の神経までもが擦り切れる思いだった。彼女は大きな路を踏み外しかけていて、しかし本人は意に介せず、この行為に当初とは別の感情すら持ち合わせているようだった。私たちに見せ付けるや、写真に収めるだけなら未だ良かった。彼女の暴走は留まる事を知らなくなった。この格好のまま街中を歩いてみたい、と、云い出したのだ。それには私と女中は反対したが、やはり聴く耳を持たず決して折れてくれない。果たして、自動車を走らせ私たちは上野に向かう事となった。公園内を歩いて少し先を行けば、街全体が薄汚れた雰囲気を漂いだす。その場所で、彼女は歩いてみようとした。もはや、止めようがなかった。あの格好で、素足のまま彼女は自動車から降りる。私たちは、車内から彼女を見守る役とされた。万が一のことがあれば、すぐに助けに駆けつけられるよう。外に映った彼女は、その灰色の風景と良く似合っていた。後ろからだと彼女と判別できないほど、そこにいるのはただの薄汚い乞食の少女だった。街を歩く人たちも、彼女と大差ない格好をして彼女の横を通り過ぎていく。今にも崩れそうな家々に囲まれて、或る者は地べたに座り込み、或る者は死んだように寝そべる。子どもたちは陰鬱な目をして、大人たちを見上げる。簡易に建てられたような屋台も、夏祭りなどで見かけるそれと違い何処か寂しげで、沸き立つ煙が埃と絡まり、全てを覆うようなそれらは霧のように漂った。私としては、珍しい光景ではない。この道も、歩いた事がある。しかし、それでも恐怖感に苛まれ、独りで歩く事を躊躇わせて、私は父の傍を離れられなかった。表の商店街と違った、おどろおどろしさがこの貧民街にある。気高きものも、汚きものも、それらははっきりとしているからこそ、感じられる。ゆったりと歩く彼女からは、触れたくないような潔癖が嫌うような雰囲気に包まれている。しかし、それでは駄目なのだ。彼女が求めているものではない。その中でも、私は彼女の気品高さを見受けなければいけない。どう見ても感じられないものに、私は無理にでも享受しなければいけない。彼女がこちらに戻ってきて、尋ねられたら私は嫌でも頷かなければならない。眩暈がして、意識が遠のきそうだった。何故、こんなものを見せ付けられるのか。彼女が、しゃがんでいる子どもの前に止まり、腰を屈めた。互いが見つめ合うと、彼女はにやりと笑った。欠けた歯を覗かせその子どもも笑った。私には、どちらも同じに映った。自動車の前まで戻ってきた彼女の額には脂汗が滲んでいた。彼女にもやはり恐怖を感じる側面があった、それだけで私は救われた。どうだったか、という問い掛けにも、しっかり頷く事が出来た。その足で乗せることは出来ないと女中に注意され、水場に急いだ。それには私たちも付き添った。砂利などを踏みしめた足は傷つき、所々で血が滲んでいた。微かな痛みに顔をしかめるが、彼女は何故か頬を赤らめて、目元を細めていた。白い水が泥を洗い流す。出来る事なら、彼女についた汚れ全てを落としてしまいたかった。そんな私の願いは届かない。彼女は、汚れるために日に日に間違っていく。やがて、私が屋敷に訪れるとすぐに上野に向かう習慣がついた。彼女は、汚れた道を歩いた。何処でも歩こうとした。貧民と庶民が交わる本道に出ることもあった。彼女は大胆になっていった。自ら物乞いの行為すらして見せた。突然立ち止まり、裕福そうな人の前に塞がって、手を差し出す。誰もがそんな彼女を押しのけて過ぎ去った。その正体が米原家長男の夫人と知れば、誰もが驚く事であろう。しかし誰も彼女に気付かず、そこら中にいる一人の乞食として認識していた。その姿にある彼女を気高いと云うのは、私の口のみだった。女中も運転手も無言で彼女に従うのみで、彼女を止める気配はなかった。米原家の召使であろうが。主人の妻があのようなことをして、黙っていて良いのか、私は一度女中に迫ったことがある。

「米原様のお仕事は、慈善事業が主となります。奥様は、それに付き添うために身を以って調査をしているのでしょう。米原様の力になりたいと、私が彼女に打ち明けられた事です」女中はしれっと答える。そこに感情は含まれていない。

「元々、奥様は潔癖が過ぎると米原様も困っていました。汚いは汚いと括る彼女に対して、言い争う姿を何度も見受けています。私は口出し出来ませんでしたが、彼女の中でも反省する心があったのでしょう。そこに、貴女がいました。貴女のお話は、以前から奥様に聴かされていました。見た目は何処にでもいる少女だが、彼女には美しいまでの気品が備わっている。貴女に対して投げかけていた言葉は、全て偽らざるお言葉です。そんな貴女がいたからこそ、自信が持てたのでしょう。敢て汚いことをしても、自分は気高いままでいられると思う、勇気を」

 結果は、まあ奥様は直に壊れるでしょう。最後に付け加えた言葉に、救いのなさを見出し、私はもう、彼女のことを直視する事が出来なくなっていた。女中の予言は間もなくして、見事に的中した。彼女の心も、何処か本筋の所を逸れてしまい、本人でも何をやっているのか判別つかない状態まで至ったのかもしれない。路地裏に向かう彼女と、見るからに卑しい男たちが列になって後に続いていく光景を、私は必死に堪えて見届けた。彼女たちが消えた先でまさかそんなことが実際に起こり得る筈はないと、その時は未だ彼女の正気を信じていた。彼女が一線を越えてしまったその日、私は初めて物を食べたら直ぐに吐く、という経験をした。胃の中の物全てが、それを思い出すと逆流して溢れ出てきて、混ざり合って薄めた黄色染みたそれが、肌の色を連想させて又催した。彼女の、灰色の肌が灰色の肌同士でぶつかり合い、汚い汗が飛び散り、獣の声を上げた。汚い塊に囲まれた汚い彼女は、汚い欲望を貪り合い、動物の姿を体現していた。野獣の戯れか、それよりもっとおぞましい物を見させられている気分のまま、私の瞳はゆっくりとその光景を閉ざした。全てを終え、独り放りだされた彼女に、思わず近寄ったが饐えた臭いに足が止まり、目の前にいるのが果たして彼女なのか、つい疑ってしまった。汚れた身体を、汚れた液体塗られて、獣が死に際にするような呻き声をたてるモノを、私は知る由もなかった。それが本当に奏さんであれば、肌は白く、髪は透き通り、着物も豪勢であり、こんな下品な声を出す筈がない。

「ねえ、私はどうかしら? ちゃんと輝いているかしら?」

 聞き取るのも困難な程か細く、それが云った。開かれた口内は私が憧れていた白く歯並びが良く花が咲き誇った様に喩えられたそれではなく、見るからに口臭が漂う黄ばんだ歯と矯正器具を使っても一生治りそうでなさそうな程歪んだそれだった。彼女は既に帰れない地点まで辿り着いて、私が初めて見たあの奏さんは消え、そこにいるのは汚らしい一人の乞食だった。私の口からは、もう偽りの言葉は吐けなくなり、貴女は立派な乞食です、と、彼女に教えた。立派に汚れて立派に酷くみすぼらしく、触れる事も躊躇うような、乞食です、と。しかし彼女は絶望の表情は浮かべず、ただ口元を引き攣らし、卑しそうに笑うだけだった。


 最後まで止めようとしなかった私が罪なのか、それからして、彼女が屋敷に戻る事はなかった、らしい。彼女が破滅までに歩んだ道程は誰にも知られる事はなかったが、巷の噂で、上野のとある路地裏で白痴の女が身体を売っている、という話を聴いた。格安で抱けるらしいが、常に下痢を垂らし空ろな目をしてぶつぶつと何かを呟いているような女で、とてもじゃあないが情欲に流される者はいない。あそこまで不潔な乞食もそういない、などと囁かれ、一種の汚物として見られているらしい。その女が彼女か定かではないが、私にとってはもはや取るに足らない話題だった。

 私が今、奏さんが嘗て居た場所まで伸し上がって、思う事があった。

 気高さとは、結局の所現状にある境遇が全てであり、当時の私は奏さんが評するような女性ではなかった。乞食は乞食、庶民は庶民、貴族は貴族。その区別こそが、全てなのだ。精神的な考えは、通用されない。