神とは、何億年かかってもたどり着けないような崇高なものではなく、意味から解放されている素地。

 

隠れていない。

 

「空気」と同じ。

 

魚にとっては「水」と同じ。

 

というか、「わたしたちそのもの」

 

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自我と同一化しているあなたは、神があなたを愛しているとは信じられない。あなたは自分で作り出したものを愛してはおらず、あなたが作り出したものはあなたを愛してはいない。父を否定することから作り出された自我は、自らの作り主に忠誠心をもってはいない。あなたは、自分が作り出した自己に対する憎悪ゆえに、神と神の被造物たちとの間に存在する真の関係を思い描くことができない。分離するという決断を、あなたは自我の上に投影している。そしてこのことが、自分で自我を作り出したがゆえに自我に対して感じている愛と、葛藤する。この世界の中の愛には、こうした両面感情を伴なわないものはなく、また、自我は両面感情を伴なわない愛というものを経験したことがないので、そうした概念は自我が理解できる範囲を超えている。愛は、真にそれを欲する心ならどの心の中へでも即座に入ってくるが、そのとき心はそれを真に欲していなければならない。ということは、心が両面感情をもたずにそれを欲するという意味であり、この種の欲し方には、自我の「獲得しようとする衝動」が皆無である。

 

 

自我が提供し得る体験からはあまりにかけ離れた種類の体験というものがあり、ひとたびそれを経験するなら、あなたは二度と再びそれを覆い隠したいとは思わなくなる。闇と隠蔽へのあなたの信念こそが、光が入ってこられない理由だということを、ここで繰り返す必要がある。聖書は、数多くの箇所で、あなたに与えられている計り知れない贈り物について語り、そうしたものは、自ら求めなければならないと述べている。これは、自我が条件を定めるときのような条件というものを示しているのではない。栄光に満ちた本来のあなたの状態を示している。

 

 

あなた自身の意志の他に、あなたを導くに充分に強く、充分にふさわしい力はない。の点において、あなたは神と同じく自由であり、また必ず永遠にかくあり続ける。あなたへの神の愛と神へのあなたの愛を、あなたがいつも心に留めておけるようにと、私の名において共に父に求めよう。神がこの要請に応じなかったことは一度もない。なぜなら、それは神がすでに意志したことのみを求めているからである。本気で呼びかける者たちにはいつでも答えが与えられる。汝、神の他に何ものも神にすべからず、ということの理由は、他に神などいないからである。

 

 

これまで自分が考えたことで、知識に対立するものはすべて手放そうという思いは、今まで一度も実際にあなたの心に浮かんだことがない。あなたは幾千もの恐れの小片(かけら)を持ち続けており、それが聖なる存在が入ってくるのを妨げている。光を遮断するためにあなたが作り出す壁を、光は通過できず、また、光はあなたが作り出したものを決して破壊しょうとはしない。誰も壁を通して見ることはできないが、私は壁を避けて通ることができる。あなたの心を見張って恐れの小片(かけら)に注意していなさい。さもなければあなたは私にそうするように頼めない。私は、私たちの父が私たちを創造したのと同じやり方でしか、あなたを助けることができない。私はあなたを愛し、尊び、あなたを作り出したものへの完全な敬意を持ち続けるが、それが真実でない限り、それを支持することはしない。神があなたを見捨てることがないのと同じように、私は決してあなたを見捨てることはしない。しかし、あなたが自分自身を見捨てることを選んでいる間は、私は待たなければならない。私は、もどかしさの中ではなく、愛の中で待っているのだから、あなたは必ず本気で頼むようになるだろう。少しの躊躇いもない一つの呼びかけさえあれば、それに応えて私は来るだろう。

 

 

注意深く見つめて、あなたが本当に求めているものは何なのかを見極めなさい。私たちはお互いから何も隠してはならないのだから。あなたはこの点について自分自身に非常に正直にならなければならない。あなたがこれを行おうと真に努力するなら、あなたは聖なる存在が入ってこられるように自分の心を準備する最初のステップを踏み出したことになる。私たちは共にこの準備をする。ひとたび神が訪れたなら、他の心たちに神に向かう準備をさせる私を、あなたは手伝う用意が整うからである。あなたはいつまで神の国を神に拒み続けるのだろうか。

 

 

自我には拒否されているとはいえ、あなた自身の心の中にあなた自身の解放の宣言がある。神はすでにあなたに一切を与えている。この一つの事実だけで、自我は存在しないという意味になり、これが自我を甚だしく怖がらせる。自我の言葉においては、「所有すること」と「存在すること」は別のことだが、聖霊にとってこれらは同じである。聖霊は、あなたが一切を有しており、一切でもあることを知っている。

 

 

(奇跡講座 テキスト 第4章 Ⅲ 4.5.6.7.8.9) 』

 

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「自我」の要求、欲求、願望は矛盾だらけです。

 

「自我」は何を手に入れても、決して満足する気などないのです。

 

奇跡講座の言葉にあるように「分離するという決断を、あなたは自我の上に投影している。」ので、「分離」し続けるのが目的なのだから、「満足」したら、「分離」できなくなるのですから。

 

次の枯渇感を生み出し続けます。(これぞ地獄・・、でも見抜けば、大したことではありません。)

 

そして、この「自我」の働きに気づいたらいいだけです。

 

「私は、もどかしさの中ではなく、愛の中で待っているのだから・・・」と、ただただ優しく待ってもらっていることに気づきます。

 

この優しさに甘え、「はーい」と素直に向きを変えるだけ。

 

要求、欲求、願望がわいたら、「注意深く見つめて、あなたが本当に求めているものは何なのかを見極めなさい。」

 

そして、

 

要求、欲求、願望を目的とせず、それが叶ってしまったとき到達する「神」にゆるまる、一致する。

 

ゆるまり、一致すれば、わかります。

 

自我が提供し得る体験からはあまりにかけ離れた種類の体験というものがあり、ひとたびそれを経験するなら、あなたは二度と再びそれを覆い隠したいとは思わなくなる。

 

「今ここ」「事実」「思考が介入していない日常」「わたしたちそのもの」と一致した、その完全性を喜びます。

 

それが、そのまま、普段の日常にあふれているのに気づきます。

 

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「奇跡講座」は、書き写しだしたら止まらなくなります。

 

つくづく、「奇跡講座」は、「学び」というよりも「真実の共鳴」「呼び覚まし」という存在だと感じます。

 

気楽に、じんわりと、素直に、無邪気に、「真実」に対して「イエス」とただ頷くのみ。

 

恩恵を頂くのみ。

 

じっくり読むだけ。

 

難しいのではなく、わたしたちが、外側に気をそらしているだけだから、少し静かになってみる。

 

自我の世界を良くするためにと、読んでしまうとあらぬ方向に行ってしまうけど、、。

 

そんなマヤカシの願望は置いて、本来の、栄光に満ちた本来のあなたの状態に心を開くだけでいい。

 

そしたら、自動的に、実際の日常、現実も祝福に満ち、健全さの中で整っていく。

 

これは気休めでもなんでもない。

 

ただ恩寵を賜るだけです。

 

どこを取っても、非の打ちどころない、わたしたちへの「無条件」という「恩寵」のシャワーが降り注ぎます。

 

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090-1191-5554

kuzira826@yahoo.co.jp

茂藤かおり

 

 

 

ワークショップを開催します。↓

 

 

 

 

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★YouTubeにて、【オープンハート誘導瞑想】公開してます。→●

 

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コチラ(hatena blog)は、「奇跡講座」のレッスンの記録等を書いてます。~

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。