今日は長文になりますが、よかったらお付き合いください・・。
奇跡講座や非二元、または潜在意識の学びなどで、
いよいよ「分離」という自我の構造に気づき、ある時期ハッと開けた感覚になります。
「すべて幻想なんだ・・」
「実相には罪という概念はない」
「分離してない」
その真理に触れたとき、私たちは心底ホッとして安心感に包まれます。
けれども、ここで多くが勘違いをしてしまいます。
とても巧妙で、根深い自我の罠ともいえる・・・「レベルの混同」・からの「スピリチュアル・バイパス(霊的逃避)」と呼ばれるものです。
崇高な真理とその言葉を、自我の「隠れみの」に使うのです。
等身大の自分に対する現実逃避や、自己正当化のために、真理を利用してしまうこと。
心は緩み、開き、生命そのもの、全体性のフィーリングにくつろいでいるはずなのに、なぜか現実への嫌悪感が増えたり、現実の人間関係がギクシャクする。
家族関係や夫婦、友人、職場の関係などで、ますます自分や相手へのジャッジが強まる。
奇跡講座などを崇高な学びとして「上に置いて」特別視し、それ以外を遮断する。
これは、自我が真理とその言葉を歪曲して、さらなる分離へと利用しているということです。
本当に、ここは誰もが何度もハマってしまうところです。
なので、私の実体験も交え、自分の整理のためにもあらためて、ここを言語化していこうと思います。
【根本的な正見か?マヒで誤魔化しているか?】
人生って、毎瞬間、真っ新のキャンバスのようなものゆえに、表現の仕方はさまざまだけど、未熟さの連続となります。
だからこそ、防衛することで生き延びようとすることも、源に気づくまでは防ぎようのない当たり前のこと。
人との関係も防衛に基づいているから、奪い合いやかけ引きをしていて、ある意味ずっと「不誠実な関わり」しかできなかったのも避けられなかったのです。
何が本当の誠実さなのか?
愛を元にした関わり合いって何なのか?
何が私なのか?
私たちは、ずっと、不確かさに居座る迷子ちゃんだったのです。
そして、自覚しているか無自覚なのかに関わらず、常に私たちの心の奥には、強烈な「罪悪感」や「恐れ」という痛みの感覚を抱えていて、それを避けるなんて不可能だと信じていました。
そして、ようやく、「もうマジで苦しみを生きるのは嫌なの~~~~!」と本気になれたとき。
ここで、奇跡講座などとの出会いがあります(これはラッキーであり、セーフであり、必然の流れ・恩寵ですね)
この奇跡講座等が述べてくれている本質は、その強烈な「罪悪感」や「恐れ」という痛みの元にある、それを演出している「知覚(私的なものの見方)」に気づくことで、本質へ移行するのだと示してくれています。
「私は本当に間違ったものの見方をしていたんだなぁ」
「何ひとつ、正常な判断ではなかったんだなぁ」
「私という知覚があるだけなんだなぁ」
と、すっかり信じ切っていた世界から離れ、完全に白旗を上げること。
すなわち、知覚を取り下げる=思考に乗らないこと=明け渡し(サレンダー)をするということです。
※奇跡講座での表現は「聖霊に差し出す」等の表現ですね・・。
・・・
ですが、一方で、レベルの混同・スピリチュアルバイパスは違います。
「間違ってました・・」と、「丸ごと手放し」の白旗上げるのを恐れ、「私」という思考のままで、崇高さになろうとして、その言葉や概念を盾にして隠れてしまうのです。
「間違っていました」と認めるのではなく、真理を盾にさらに防衛しちゃうんです。
「実相には罪はないって講座で言っているから、私は悪くない」
「不足は存在しないんだから、目の前のこの問題は幻」
もちろんそうです。
「悪くない」し、「罪はない」し、「幻」です。
でも、微妙に受け取り間違いをしています。
結局は、真逆の解釈になってしまっているのです。
本質はこうです。
「実相には罪はない。ということは、罪を見て恐れたり、怒っていたり、決めつけたりしている私や誰かがいるという見方自体が間違っていた」
「不足は存在しない、幻だ。ということは、不足を問題視しているという自分がいるという捉え方自体が間違っていた」
ということです。
真理を盾にして個別の自我を裁いて、個別の自我をリアル化(実在化)するのではなく、その自我の作る現実に罪のなさ(無罪性)、実体のなさを見る。
そうして、自分とも相手とも、その「罪のなさ」が前提での関わりになる。
つまり、自分と思い込んでいた自我(分離、恐れ、怒り)に対して、等身大の自然さ、無防備さで関わっていくということになります。
ここで、私の場合を例に挙げます。
心の学びを深めていく中で、私は夫に対して、ますます「違い」を見るようになりました。
常に水面下で、強烈なジャッジメント(審判・判断)を下すことを退けていませんでした。
「私は真理を知っているけれど、この人は何もわかっていないから、きっと救われない・・どうにかして、いつかわからせなければ!」という知覚です。
表面上は取り繕い、「あなたのこと認めてますよぉ、だってつながってますもん」ってフリをしていても、心の中では、しっかり個別の私がいて、彼の言動を探りまくって断罪する自我のポジションに居座っている。
心の中で、夫を「罪の子」として見ている私という視点に乗っかっている。
そうなると、当然、筒抜けのエネルギーは、ふとした言動や表情としても現れていて、結果、関係性はギクシャクしているんです。
めちゃくちゃ居心地悪い関係性。
「真理を悟った正しい私」という、結局は特別性(特別でありたい自我)のポジションを保つために、目の前の大切な人(兄弟)と、「思考(自我)」を介さない素直で無防備な関わりでいることから逃げていたのです。
【形の世界で「明け渡し・サレンダー」を体現するということ】
真理を学んでいない(と私が思っている)家族(夫)と関わる時、「レベルの混同・スピリチュアルバイパス」の関わりと、「明け渡し・サレンダー」での関わりでは、日常の一場面でどんな違いが出るのか書くことに挑戦してみます・・。
・レベルの混同のとき:
夫に対して、「自我は間違ってるから、それに気づかないあなたは間違っている」「形の世界の善悪や損得などにこだわっているあなたは間違っている」と、心の中で(あるいは実際に口に出して)真理の正義を押し付けます。
何かにつけて、夫を「目を覚ましていない人」に仕立て上げて、私の正しさを主張することを取り下げない。
結局は、私とあなたは違うという「分離」「罪意識」の世界をますます強化してしまい、ますますくつろげない関係を体験する。
ひいては、他の人間関係までもますます嫌気がさしてしまう。
なぜなら分離ばかり体験するから・・・・というスパイラルに陥ります。
・明け渡したとき:
夫との関わりの中で出てくる様々な思い、
「彼は気づいていないし間違っている」
「どうせ、わかり合えない」
「彼も私をゆるしていない。なぜなら、私が伝えていることに耳を傾けないから」
というこれらの信念を、書き出したりして気づき、直視します。
直視すると、訂正が自然に生じます。
「あぁ、本当は彼が気づいているかいないかなんて、なんにもわからないし、わかり合えないようにしているのは私だし、自分の主張を押しつけて、ゆるす気がないのも私。」
「皆、実相なので、すでにわかり合っているのに、”違う”と決めつけて断罪しているなぁ。間違ってるなぁ」と、内側で静かに明け渡しが起きます。
心の中の「私を考えを守るための盾(防衛)」をやめると、私を主張する真理の理屈は必要なくなります。
ただの「普通の人(神の子)」としての無防備さが現れます。
そうすると、まずは、
「ごめんね。私が私を成り立たせるためにやってた。態度ひどかったなぁ、嫌な思いをさせていたなぁ、ひとつの生命であることを拒絶していたなぁ」と気づき、シンプルに謝りたくなります。
そんなあたたかいひとときが生じるのです。
その謝罪はとても自然な感覚で、ただただ軽やかです。
自我の「私は正しいから謝る必要はない」「悪いのは夫だ」みたいな抵抗が出ますが、それよりも、もうそのこだわりの塊から「解放される心地よさ」の方が上回ります。
そして結局は、夫への謝罪は、自分への謝罪でもあったことに気がつきます。
「ごめんね、私。個別の私という狂った知覚に居座っていたね。”夫が十分に真理を理解していないと、私も満たされない”なんていう分離のストーリーを仕立て上げて、いつまでも分離を信じている罪の子として不足の信念に居座らせて、分離させて苦しめていたね。夫、私、ごめんなさい」
それからの、今の私と夫は、もうなんというか「夫婦」から脱皮して、「ダチ(兄弟)」??!のようになりました(笑)。
いずれにせよ、私は夫であり、夫は私でしかない。
外側では個別に機能してるように見えますが、私たちはひとつの源なんですもんね。
あぁ、ゆるされるってこういうことなんだ、ここに着地できるなんて、思っても見なかったと。
「ありがとうございます」と。
本質の安らぎを、夫との関係から生じていた葛藤を通して思い出させてもらったのです。
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【「神の子」の本当の意味】
真理を生きるとは、浮世離れした特別な聖者になることではないですね。
むしろ、ただ全てである「只の人(ただびと)」に戻ります。
その上で、大いに、無邪気に、普通に生活し、目の前の現実を祝福のフィーリングで関わっていきます。
間違っているように見える人を変えようとコントロールすることから退き、その人のプロセスを信頼し、その自分のプロセスを信頼する。
一見問題と見えるものは、すべて、預ける機会。
結局は、その不快だった自我の体験のおかげで、本来の正気に戻れる。
ただ優しく、どこまでも軽く、どこまでも静かな喜びの恩寵が広がっていきます。
何か特別なものではなく、そもそもそれだけしかない。
元のひとつの生命=神の子に、戻るのです。
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【ご案内】
★ワーク会(京都)
日程 10月9日(金)・10日(土) 10:00~17:00
場所
参加費 1日 6,000円 ・ 2日間 10,000円
※ 今回の京都もゆきえさんが窓口でいてくださいます→ yukie
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★Hummingcafe ➡ ●
7月のテーマ
「実相コミュニケーション」
『あなたが私的な想念をもち、それらを持ち続けたいと思っているときに、どうして一切を受け入れられるだろう。私的な想念を保持できるようにする唯一の方法は、聖なる瞬間を聖なる瞬間とする完璧な親交(コミュニケーション)を拒否することである。(奇跡講座・テキスト 第十五章 Ⅳ.7 1~2)』
・・・
以前、見た映画のセリフに「あなたといればいるほど孤独になるの( ;∀;)」というのがありました。
本当なら、誰かといることで孤独がなくなるはずなのに・・・。
でも、これはあるあるですよね・・。
私たちは普段、身近な人たちと本当に「コミュニケーション」をしているんだろうか?
もしかしたら、無意識のうちに、対話という名の「取引(トレード)」「かけ引き」になっているのかも。
ということで、次回のHumming cafeでは、真のコミュニケーション=聖なる瞬間についてのワークやセッションのひとときになればと思います。
①7月11日(土)20:00~
②7月26日(日)9:30~
※ この日程で参加が出来ない方も、アーカイブで視聴できます!
お問合せ、ご参加お待ちしております。
YouTubeもアップしました。
聞いてみてください~。
どうぞ、よろしくお願いします。
「自分との関わり方が変わると、すべてが変わっていく」
モーニングテンション #29「逃げ出した過去があってもいいじゃない♪」