かけ引きはしんどい。

 

自分の思い、人の気持ちに一喜一憂し続ける。

 

不確かさから離れない。

 

自我同士は盲目同士。


わかりあうことは不可能。


それなのに、探り合う。


不毛。

 

「意味のあること」は、何も起こっていない。

 

ということは、何も起きてない。

 

思考から離れる。


過去が紐づかない。


関連性もない。


・・・


かけ引きから解放。


役割から解放。


心眼に落っこちる。

 

「あぁ、ここだ」


安らぎ祝福に満ちる。

 

自我の働きは見られながら、そのまんま看過。

 

自分も相手も、全てが"透明"の清々しさ。

 

静かな喜び。

 

・・・

 

茶道の練習のとき、参加されている方々のそれぞれの着物、帯、の生地や柄や織り方、帯締めの素材、色や織りを愛でるのが何とも楽しかった。

 

その背景も、やはり何もかも。

 

表れているそれぞれのそのまんまの美しさ。

 

ただただ、全てが神の作品。

 

無邪気に喜ぶのみ。


かけ引きは放っておかれる。

 

・・・

 

また、話は飛ぶが、


今、認知症の「母」との関係にて、自分の信念の細部までを見ている。

 

母と、「過去」を持ったまま関わろうとすると途端にしんどい。

 

しばらく囚われたのち、われ(全体性)に帰る。

 

「あ、思考に乗り、かけ引きしょうとしてた」と。

 

気づくと、心眼に戻る。

 

ただ、しばらくは意欲、勇気は必要かなと。

 

それは、これまでの自分から離れる葛藤。


だけど、実際は「不自然」から「自然」に戻ってるだけ。

 

楽になる。


自由になる。

 

自然。

 

目の前の母、神に創造されたままの無垢で完璧なスピリット。

 

・・・

 

奇跡講座 マニュアル編


三. 教えることにおけるレベルとは何か

神の教師たちには、教えることにおける所定のレベルというものはない。

どの「教えて学ぶ状況」もそれぞれに異なる関係から始まる。

しかし、究極のゴールは常に同じである。

すなわち、その関係を、両者が共に神の子を罪なき者として見ることができる神聖な関係とすることである。

神の教師は誰からでも学ぶことができる。

それゆえに、彼は誰にでも教えることができる。

とはいえ、現実的見地から言えば、彼がすべての者に出会うことは不可能であり、すべての者が彼を見つけることもできない。

したがって、この計画には、それぞれの神の教師がきわめて具体的に接することになる人々が含まれている。

救済に偶然はない。

出会うべき者たちは出会うことになる。

なぜなら、一緒であれば、彼らに神聖な関係の可能性があるからである。

彼らは互いに出会う準備ができている。


教えることの最も単純なレベルは、かなり表面的なものに見える。

それはまったく何気ない出会いのように見えるもので成り立っている。

たとえば、エレベーターの中で明らかに赤の他人である二人が「不意に」出会うとか、前も見ずに走っていた子供が一人の大人に「偶然に」ぶつかるとか、二人の学生が「たまたま」一緒に歩いて帰る、といったことである。

こうしたことは、偶然の遭遇ではない。

そのどれもが、「教えて学ぶ状況」となる可能性を含んでいる。

エレベーターの中の他人同士に見える二人が互いに微笑みかけるかもしれないし、子供がぶつかった大人は、その子を叱らないかもしれない。

また、学生たちは友達になるかもしれない。

最も何気ない出会いのレベルにおいてさえ、たとえほんの一瞬だけだとしても、二人の者が個別の利害を忘れることは可能である。

その一瞬で充分である。

救済は訪れたのである。


普遍なるコースを教えることにいくつものレベルがあるという概念は、時間の概念と同じく、実相においては無意味だということを理解するのは難しい。

一方の幻想が、もう一方の幻想をも可能にしている。

時間の中では、神の教師は一つの決断をしたことで世界について自分の心を変え始め、彼が新たな方向を教えるにつれて、その方向についてさらに多くを学んでいくように見える。

時間が幻想であることについてはすでに触れたが、教えることにおける複数のレベルという幻想のほうは、時間の場合とは幾分違っているように見えるかもしれない。

こうしたレベルが存在し得ないと実証する最も良い方法は、おそらく、単に次のように言うことである。

すなわち、「教えて学ぶ状況」のどのレベルも贖罪のための神の計画の一部であり、神の計画は神ご自身の意志の反映であるから、その計画にレベルというものはあり得ない、と。

救済は常に準備が整っており、常にそこにある。

神の教師たちはさまざまに異なるレベルで働くが、その結果は常に同じである。


「教えて学ぶ状況」はいずれも、各人がその時点で相手から学べる最大のものを学ぶという意味で、最大限のものである。

この意味において、そしてこの意味においてのみ、私たちは、教えることにおける複数のレベルというものを語ることができる。

「レベル」という言葉をそのように使うなら、教えることにおける第二のレベルは第一のレベルよりも長く維持する関係である。

その中では、しばらくの間、二人の人間がかなり密度の濃い「教えて学ぶ状況」に入っていき、その後、離れていくように見える。

第一のレベルの場合と同様に、こうした出会いも偶然ではなく、その関係の終わりと見えるものも、真の終わりではない。

ここでも、それぞれがその時点で可能な限り最大のものを学んだということである。

だが、出会った者たちはみな、いつの日か再び出会うことになる。

すべての関係は神聖なものになる運命にあるからである。

神はわが子について思い違いをしてはいない。


教えることにおける第三のレベルは、ひとたび形成されたなら生涯続いていくような関係の中で生じる。

こうした「教えて学ぶ状況」において、学ぶための無限の機会を提供するべく選ばれた学習相手が各人に与えられている。

このような関係は、概して、わずかしかない。

なぜなら、こうした関係が成り立つということは、そこに関わる者たちが、教えと学びの間の釣り合いが実際に完璧であるような段階に、同時に達しているということになるからである。

だからといって、必ずしも彼らがそのことを認識しているという意味にはならない。

彼らはしばらくの間、あるいは生涯にわたり、互いにひどく敵対していることさえあるかもしれない。

しかし彼らが学ぼうと決断すれば、完璧なレッスンが目の前にあり、それを学ぶことができる。

そして彼らは、もしそのレッスンを学ぶ決断をするなら、挫けて失敗するとさえ見える教師たちにとっての救済者となる。

神の教師が自分に必要な助けを見出せないということはあり得ない。