不機嫌になるとき、自分自身とも、周りとも、ブツブツとつながりが切れ、閉ざし、嫌な感じになる。

 

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「不機嫌さ」は自分がなるのも、人がなるのも、嫌だ、避けたい。

 

でも、わたし、本当によくやってたし、「不機嫌な人」にもよく出くわした。

 

”非言語攻撃”。

 

黙り込んで、無言で、嫌な感じを醸し出し、「愛がほしい」とアピールをする。

 

以前、娘が帰省していたとき、わたしは、夫と娘を相手に、ある出来事をキッカケに「不機嫌」になった。

 

そして、それを内側に問うことなく、夫と娘にぶつけた。

 

わたしは自分の"正しさ"を主張した。

 

わたしは、娘はわたしをかばってくれると期待していたけど、娘にも、夫にも、両方に白い目で見られ、なぐさめられることもなく、放置された

 

こうして、外から放置され、構ってもらえないわたしは、自分で自分の”内側”に下りていくしかなかった。

 

娘は、「私はお父さんからもお母さんからも愛しか感じない。だからどちらのかたも持たない。」と言った。

 

頭から水をかけられたようだった。

 

そして、「なんでこんなことになっているのか?」を冷静になって観察し直した。

 

内側に向き直る。

 

静かにした。

 

わたしはどうしたい?何を求めてる?

 

「確かさ」だった。

 

「私だけは例外、愛から除外されている」

「愛されないから、愛さない」

「私は無力なんだから、特別に扱われる必要がある」

 

愛を拒絶しているくせに、愛を求めている。

 

特別性。

 

「家族」への期待。

 

自分は孤立していて、庇護される必要があると信じている。

 

奥底の、動かす気がなかった信念。

 

・・・

 

試しに、娘の感覚になってみよう・・・と視点と感覚を移動させてみた!

 

娘の純粋さが流れ込んできた。

 

静けさ。

 

透明。

 

あたたかい。

 

愛だけがあった。

 

全体。

 

優しさ。

 

娘の視点に助けられ、それが呼び水になった。

 

わたしの中の、”愛”を受け入れた。

 

あぁ、そうだった。

 

「愛しかない」

 

「求めているものは、すでにいつもここにある」

 

信じていないものは、見ない。

 

信じてるものを、見る。

 

欠如は欠如を見る。

 

「愛を探し求めるストーリー」に入り込んでいた。

 

愛は、全体そのもの。

 

求める必要はない。

 

ゆるぎなく、ただすでに在るし、コンコンと湧き出ている。

 

・・・

 

これからも、自分や誰かの不機嫌さに出会ったら、「愛」に向き直る機会にするだけ。

 

自分の中の愛に還る!というお知らせ。

 

全体に揺蕩おう。

 

・・・

 

humming