「土を喰らう十二か月」を観てきました。

 

 

 

 

昭和42年生まれなので、昭和の歌謡曲全盛期。

 

「山口百恵ちゃん」が大好きでした。

山口百恵ちゃんのあの若さで、あの極まり方には興味津々。

 

とにかく、昭和は、魅力的なスターさんばかり。

 

ベストテンとか、ヒットスタジオとかカセットテープに録音したり、また歌うのも大好きでした。

 

だけど、わが家は喧嘩が絶えなくて、いつもそれどころじゃない家の空気。

だんだん無邪気に楽しむことが出来なくなり、そのうち、楽しむのを封印してしまったのでした。

 

それから、40年経ち、こうして気づきに満ちて、気楽になってき始めたころ、もう一度、昔出来なかったことを丁寧になぞって、できなかったことの回収作業みたいなことをとことんやろうとした時期がありました。

 

今はYouTubeで過去の歌や映像を見られるようになったこともあり、あの頃出来なかった、昭和の歌謡曲や、その時代の映画や人物などをたっぷり堪能する!ということを気が済むまでやってみたのです。

 

その中に「沢田研二さん」も。

あの頃の彼は、子供の私が恥ずかしくなるようなセクシーな演出をされていて、だからビジュアルの方の印象しかなかったのですが、ちゃんと歌を聴いたら、素晴らしい歌唱力で衝撃を受けました。

 

そして、興味が出て、しばらく「沢田研二さん」の人となりをウォッチングをしたんです。

 

彼の離婚やトラブルのこと。

 

そして、歌唱力は健在。

 

姿形が変化したことへの葛藤、昔の歌を封印して今の歌だけを歌ったり、と色んなエピソードも知りました。

 

だけどまぁ、この世界での出来事はどうでもよくって。

 

ただひたむきな表現者、アーティストとして、リスペクトしてます。

 

そんな沢田研二さんの映画、どんな感じなんだろうって、、、。

 

「日常」「パートナーシップ」「支度」「食べる」「禅」「三昧」「正見」「愛」「死」。

 

人里離れた田舎の四季を感じる暮らしの中での、心模様、人間模様の映画。

 

・・・

 

私は、大自然とか、土とか植物とか森とか実は苦手で嫌いです。

 

湿気が苦手ということもあります。(なぜか海は大丈夫なんですが)

 

四季折々の風景にもあんまり感動しないというか、むしろイライラしたりします。

 

こんなこと言ったら嫌われそうで、誰にも言えなかったのですが、、、。

 

そもそも、この世界にリアリティを感じられなくて、「生命」の息吹とか、わざとらしく感じてしまうのです。

 

おそらく田舎の暮らしでの思い出が良くないということが大きく影響していると思います。

 

蠢いていて、不安定で、不規則なものに翻弄されている感じが落ち着かなかったのです。

 

今では、この根拠のない、得体の知れない"怖さ"は、分離意識だったのだと気づきました。

 

そして、このような苦手意識は、「特別性」ゆえ。

 

だからこそ、この世界への苦手意識を含めて、四季を堪能している田舎暮らしの映画に、わたしはどう反応するのかな?と好奇心がありました。

 

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そして、この映画を観て、大自然に対して嫌悪感は出ませんでした。

 

逆に、愛だけを感じました。

 

登場人物、生き物、自然、家屋、道具。

 

全てを創造している光だけを至るところに感じ、無垢さを感じ、あたたかさに包まれました。

 

嬉しかったです。(知覚がゆるんだんだ~)

 

至るところが光と愛。

 

主人公の彼が死に直面し、死の恐怖を克服するために「死神と仲良くなろう」と決心するシーンもよかったです。

 

「得体の知れない怖さ」を演出する自我ですが、それも含めて大元は愛しかなくて。

 

人間の葛藤と、その葛藤を受け入れ、自然に溶けていく描写が清々しかったです。

 

ちゃんと、もがいていて、もがいた分、気づいて、少しずつ執着が去り、「静寂」へと戻っていく感じ。

 

、、、

 

観終わって、ワークブックのレッスン12を思い出しました。

 

「私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである」

 

わたしたちは、意味がないことに動揺してしまう。

 

意味がないということは、存在できないということだ、と信じているからだ。

 

そして、動揺は自我の働きで、そんな自我を責める必要は一切ない。

 

自我が通り過ぎていくのを、優しく見つめるだけ。

 

意味など必要のない「愛」に戻るだけ。

 

沢田研二さんの葛藤の軌跡と清々しく意味のない愛へと溶け込む姿がありました。

 

良い映画だったです。

 

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レッスン12を改めて書いてみます。↓

 

私が動揺しているのは、意味のない世界を見ているからである。

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この主題概念の重要な点は、この概念には重大な知覚の歪みを訂正するものが含まれているという事実である。

あなたは自分が動揺しているのは、恐ろしい世界、悲しい世界、暴力的な世界、狂った世界のせいだと考えている。

しかし、こうした属性はすべて、あなた自身がこの世界に与えたものである。

世界そのものには意味はない。

(1:1~4)

 

今日の演習は、目を開けたままで行う。

今回はかなりゆっくりと、周囲を見回す。

一つのものから次のものへと一定の間をおいて、ゆっくりと視線を移すようにする。

視線を移す速度が目立って早くなったり遅くなったりしないように、練習の間一貫して一定の速度を保つようにする。

何を見るかは問題ではない。

自分の視線を向ける対象のどれでも等しく注目し、等しく時間をかけることで、何を見ても同じだということを、あなたは自分自身に教えることになる。

これが、それらのすべてに対して等しい価値を与えることを学ぶ最初のステップである。

(2:1~7)

 

周囲を見回しながら、自分に次のように言う。

私は自分が、恐ろしい世界、危険な世界、敵意ある世界、悲しい世界、邪悪な世界、狂った世界を見ていると思っている。

 

このように、なんでも思い浮かんでくる形容詞を用いて表現する。

否定的な表現ではなく肯定的な表現が思い浮かぶようなら、それも含める。

たとえば、「よい世界」とか、「満足できる世界」などを思いつくかもしれない。

そういった形容詞が浮かんできたら、それもほかの言葉と一緒に使うようにする。

なぜこういった「快い」形容詞がこの演習に含まれるのか、あなたはまだ理解しないかもしれないが、「よい世界」は「悪い世界」を暗示し、「満足できる世界」は「満足できない世界」を暗示することを覚えておきなさい。

あなたの心をよぎる言葉はすべて、今日の演習の題材として適している。

それらの表面的な性質は問題ではない。

(3:1~7)

 

意味のないものは、よくも悪くもない。

それなら、なぜ、意味のない世界があなたを動揺させるのだろうか。

もしあなたがこの世界を意味のないものとして受け入れることができ、そこにあなたのために真理が書き込まれるままにすることができたなら、それは言葉に尽くせないほどあなたを幸せにすることだろう。

しかし、それが意味のないものであるからこそ、あなたは自分が望む世界像をそこに書き込まずにはいられない。

あなたがこの世界の中に見ているのは、これである。

真に意味がないものというのは、これである。

あなたの言葉の下には、神の言葉が書かれている。

今は、真理はあなたを動揺させる。

しかし、あなたが書き込んだ言葉が消し去られたときには、あなたは神の言葉を見るだろう。

それが、これらの演習の究極の目的である。

(5:1~9)

 

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humming HPです。