「10年で変わったこと・変わらなかったこと」というお題。

 

これまでの10年を振り返ることで、なんかまだ心の隅っこに残ってるものが出てくるかもしれないので書いてみました。

 

この10年ということは44歳~54歳。

本当に濃い、激動の日々でした。

我が家が建ったのも44歳の頃で、子供たちは高1と高3。

 

新しい家でのスタートは嬉しかったですが、同時に、それまでの10年間で患っていた子宮筋腫の重症化。

 

大量出血で入院し、子宮全摘出のはずでしたが、セカンドオピニオンでの治療にて、奇跡的に全摘せずに回復。

 

その後、身体への深刻さがゆるまり、余裕が出てきて、かねてより学んでいた心理の追求と気づきが深まっていきました。

 

催眠療法(ヒプノセラピー)にて、「意識」の構造が腑に落ち、これまで見るのが恐かった自分の内側をちゃんと見るように。

 

真っ暗で、得体が知れず、コントロールできないと思っていた「自分の心」を冷静に見始めました。

 

ある日、パチンって風船が割れるように「あれ?私、なんでこんなに自分を責めてるんだろう?」

 

「自分をとてつもなく悪くてダメだ、ダメな奴だと思い込んでいる」・・・「なんで?」「なにを根拠に?」って。

 

これは、のちに「自我」との同一化からの解放だったとわかりました。

 

小学一年のとき体験した「肉体は自分ではない!」という一瞥体験の強烈なのが再び起きました。

 

それからは、アロマセラピーでのボディケア中心の仕事から、「内面」と関わる仕事に移行していきました。

 

セラピースクールでのヒプノトレーナーとして、受講してくださるみなさんと、マインドの変化の実体験や、日々氣づいたことをフィードバックしながら、わかち合ってきました。

 

一生懸命でした。

 

また、血縁関係のしがらみや、その自分の信念にも、逃げずに向き合うようになりました。

 

これまでの関係性が変わっていくのは怖かったし、勇気が必要でした。

 

でも、これまでがんじがらめのままのパターンの関係から離れる選択をしました。

 

被害者、加害者という、共依存関係から離れていきました。

 

そうやって、少しずつ自分を縛っていたもの、その土台になっていた信念から離れ、重荷が減って、苦しみが薄れていきました。

 

自立的になり、日常は見違えるように良好になりました。

 

だけど、まだ常に何かが足りないような、満たされない感覚があり続けました。

 

まだまだ何かしら漠然とした不安感、罪意識、防衛心がありました。

 

心に「闇」(自我)が居座っていました。

 

このころはまだ、物質の世界(二元)を信じていました。

 

「進化」することや、「宇宙」に向かうことが、真実だと信じていました。

 

でも、「これが確かな答えだ!」と掴んだはずの真実が、次の日には「不確か」になっていました。

 

真実だと思っていたものが、スルっと逃げるのです。

 

なので、毎回毎回、最新の氣づきを見つけ、書き換える必要がありました。

 

でも、「変化が進化なのだ」と捉えていました。

 

だけど、どこまでもいつまでも「進化」「進化」と言い続けることに、漠然とした疑問がありました。

 

どこまでも広がるのが宇宙の性質だから、この「進化」の道を進めばいいんだって言い聞かせていましたが、正直、疲れ果てていました。

 

一喜一憂することにも、頑張り続けることにも、うんざりしていました。

 

どこまでも果てしなく続く”ぬか喜び”に、疑問と怒りと絶望がありました。

 

すでに「奇跡のコース」に出会っていたのですが、反発してました。

 

また、「バイロンケイティさん」のワークは染み入っていました。

 

ただ、完全な「サレンダー」に怖気づき、まだでも、自分のやり方でなんとかしょうと思っていました。

 

・・・・・・

 

ずーーーっと、苦しかったのは、「愛」とはなんぞや?ということでした。

 

世の中や人間に対して興味がありませんでした。

 

わたしは不感症だなぁと思っていました。

 

「愛」なんて感じないなぁと。

 

この不感症な感覚に罪悪感がありました。

 

この不感症的な感覚は、幼少期のトラウマが原因だろうと思っていて、たくさんのセラピーを重ねてきました。

 

ヒプノやゲシュタルト療法、ワークなどで「感情」を解放し、「思考」を疑い、ありとあらゆる「心」のアプローチを体験。

 

積極的に癒しに取り組みましたが、相変わらず不感症さは健在で、なんというか「無」という感じです。

 

こうして「不感症」な感覚のままでした。

 

自分にも、人にも、社会にも、世界にも、変に冷めていて無関心な感じ。

 

でも、だからこそ冷静でした。

 

色んなものが隅々まで透けて、良く見えました。

 

こうして見えているからこそ、セラピーや氣づきをわかち合えていました。

 

また、人と氣づきをわかち合っていけば、きっとこの「無」が何なのか理解が起こるはず・・・。

 

・・・・・・

 

そんな日々の中、この10年間の最後の2年間で大きく方向転換が起きました。

 

それは、こうしてこれまで築いてきた仕事と人間関係から離れることでした。

 

・・・・

 

全部が振り出し。

 

築き上げてきた人間関係、仕事がガラガラと壊れました。


いろいろと、すっからかん。

 

・・・・・・・

 

そして、もう一度、「奇跡講座」を自学自習することに決めました。

 

転機でした・・・。

 

あらためて読むと、わたしの葛藤の根源がスルスルと理解できていきました。

 

・・・

 

「愛」を誤解して信じていたのでした。

 

「愛」はありました。

 

「愛」は、「不感症」だと思い込み、避けていた”これそのもの"でした。

 

「不感症」というレッテルを貼っていたのは”自我”でした。

 

「不感症」ではなく、「どこまでも壮大な静けさ」でした。

 

完全に看過した視点だったんです。

 

愛だったんです、最初から。

 

・・・

 

「奇跡講座」の「ゆるし」とは・・・

 

「愛」だけが実在している。

 

それ以外は存在しない。

 

そもそも「ゆるさなければいけない」ものなど存在しないということ。

 

・・・

 

最高に幸せな、安堵の気づきでした。

 

わたしは、これ以上のことを求める必要を感じていません。

 

この10年で変わったのは、「愛」に気づいた(受け入れた)ことです。

 

気楽。

 

楽しい。

 

面白い。

 

優しい。

 

なんでも、笑って、放っておけます。

 

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変わらなかったことは、

 

自我はそのまんまだということです。

 

相変わらず、自我は自我。

 

また、個人のわたしは、そのまんま。

 

ダメなものはダメなまま。

 

不得意なものは不得意。

 

体力はそんなにないし、不器用だし、頑張れないし、根性もない。

 

体型もカッコ悪いままほぼ変わらず、歳も普通に取って、衰えも自覚しています。

 

ただ、そこに力を見なくなりました。

 

ただ、可愛らしいと感じます。

 

自我を「問題だ」、といじめることはありません。

 

そして、何にも変わらないと書きましたが、こだわらなくなるほど逆にスッキリしたりします。

 

・・・

 

10年間の振り返りにて、再確認。

 

全ての機会がありがたいです。

 

「愛」だけがリアルです。