「正しい」を大切にしてたころは・・・。

 

どちらが正しいか?とか、何が正しいか?とか、ずっと永遠に議論が終わらない。

 

この世界のしくみは、「正しさ」を盾にし、勝ち負け、追求と闘争が続く。

 

「正しさ」を求めれは、「緊張」「疑心暗鬼」「ジャッジ」「恐怖」は終わらない。

 

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「正しさ」の追求するのは、「罪」の存在を信じているから。

 

心静かに見つめると、

 

「わからない」

「どっちも正しくてどっちも間違い」

「そもそも正しい間違いを決める事は不可能」となる。

 

そしてこれって「”思考”の遊びだなぁ・・という気づきはじめる。

 

とたんに、「思考」は行き場を失う。

 

「沈黙」する。

 

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「奇跡のコース」では、こんな風に表現されている。

 

【心は、分離の信念を、非常に現実味があり非常に恐ろしいものにすることができる。

そしてこの信念こそが、「悪魔」である。

それは強力で、活発で、破壊的であり、また、それは神の父性を文字通り否定するので、明らかにに対抗している。

あなたの人生を眺めて、悪魔が何を作り出したか見てみなさい。

このように作り出されたものは真理の光の中では確実に溶け去るということに、ただ気づきなさい。

なぜなら、その土台そのものが嘘のかたまりだからである。

あなたがによって創造されたことだけが、決して揺らぐことなき唯一の土台である。

なぜなら、光がその中にあるからである。

あなたの出発点は真理であり、あなたは自らのはじまりに戻らなければならない。

はじまり以来、多くのことが見られてきたが、実際には何も起こってはいない。

あなたの心は葛藤の中にあっても、あなたの自己は今なお平安の中にある。

あなたはまだそこまで戻っていない。

だからこそ、こんなにも怖れを抱くのである。

はじまりに近づくにつれて、あなたは自分の思考体系が破壊されるという怖れを、あたかもそれが死に対する恐れであるかのように、自分の身に感じる。

死というものはないが、死を信じる信念は確かに存在している。

 

テキスト 第3章 Ⅶ 5:1~11)

 

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「正しさ」を放棄し、「何もわからない」と認めゆだねたとき、ホッとしてスペースができる。

 

そうして、正気になっていく。

 

ラジオの周波数がピタリと一致するように。

 

開放感、穏やかさ、清々しさ、という祝福の中へと溶け込む。

 

「正否」を抜けた、シンプルな幸せな場へと開かれていく。