お正月などの行事ごとで夫の実家に帰ると、私が率先して、義母さんのお話の相手をすることになる。

 

夫はほぼ全く聞かない。

 

娘も息子も近況報告が終われば、スマホか昼寝してる。

 

義母さんはとても働き者でリスペクトしている。

 

わりとシンプルであっさりしていておられるが、それでも互いの近況報告が終われば、だんだん会話の内容は、世間話になり、近所の人が病気になったとか亡くなったとか、そんな話になってしまう。

 

私は、その近所の人がどこの誰なのか全く知らないのに、真剣に聞いているフリで「へーそうなんですねー、ハー大変ですねー」などと相槌をうつ。

 

とにかく、私以外はみんなコタツにゴロゴロ寝っ転がって勝手なことをしている。

 

私だけが真剣に聞いている(フリをしている)。

 

年に何度かだし、昔の私の田舎の出来事に比べたら、楽だしのんびりしているのだから、このくらい我慢しようと思っていた。

 

だけど、私ばっかり氣を使ってるなぁと思うと、だんだん腹が立ってきて、夫に、「なんで一緒に話を聞かないの?!」と言ったら、「だって聞きたい話じゃないから」と、本当にシンプルな答えが返ってきた。

 

「それは私も一緒じゃ~。だけど誰も話を聞かなかったらお義母さん可哀そう」と思った。

 

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でも、私が聞かなかったら、義母さんは諦めて、どうでもいい近所の人のうわさ話をしなくなるかもしれないなぁ。

 

私は、「どうでもいい話」の共犯者だ。

 

また、私は勝手に、お義母さんを可哀そうな人と決めつけている。

 

これは私の「分離意識」であり、「投影」なのだ。

 

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「会話は大切!」という強固な概念があることに氣がついた。

 

カウンセラーの仕事で「傾聴」と「受容」が大事だとすりこまれている。

 

だけど、あらためて正気を取り戻すと、本当の「傾聴」「受容」とは、「無力」ではないと見ることだ。

 

恐怖心からの「受容」は、「受容」ではない。

 

人のことも、自分のことも、「無力」だと見るのは、間違いだった。

 

それは、「分離」を強化している。

 

真の「傾聴」「受容」は、「実相」を祝福することだ。

 

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これまで、「愚痴・噂話」は聞きたくない、言わせたくないと思っていたのは、それを「罪」だと感じるからだった。

 

「愚痴・噂話」に意味と脅威と見て、それを恐れていたのだった。

 

そもそも「愚痴・噂話」には何の力もない、それは通り過ぎていくものだ。

 

義母さんも、自分自身も、みんなも、「全体」、「純粋な源」。

 

これを思い出したい。

 

そのうえで、そこで起こる「会話」を楽しみたい。

 

純粋な空間の表れ、美しい一期一会のひとときを祝福し味わおうと思った。