自分の中の”確かさ”とつながったら、さみしさや焦りや欠乏、無力さや、無価値観、被害妄想、不安、恐怖心は去っていく。
揺るぎなさ、感謝と喜びが溢れる。
自我である自動的な「思考」、肉体の反応に氣を取られ、執着していると、自分の神聖な普遍さ、聖霊の声は届かない。
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先日、中村天風さんの本にふれて、心が深く深く喜んでいる。
以前も感動しながらも、抵抗もあり、自分の思考の主張も強くて、「私もう知ってる、とっくにわかってる」って知ったかぶった姿勢だったのだと思う。
「真に受け取りたい」という謙虚な気持ちがなかった。
まだ「自我」を取り下げたくないという思いが強かった。
「奇跡講座」に対してもそうだし、天風さんの強烈でパワフルな愛に出会っているのに、受け取ろうとしないなんて、私は本当に正気じゃなかった。
愚かだったなぁ、狂ってるなぁ、恥ずかしいなぁ、自己主張ばかりで、聞く耳なんか一切なかった・・・・・。
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だけど、自我の主張を取り下げる意欲は、自我自身が本当に絶望しなければ、なかなか湧かないのだとも思う。
ある程度、自我が取り消されるような癒しがないと、真実を受け入れるのは無理だったとも思う。
なので、癒さなければいけなかった人生に心から感謝している。
最悪の人生だったからこそ、真実を必死で求めた。
惨めな人生だと思い込んでいたけど、それによって真理に目覚められた。
おおい みつる著
「ヨーガの里に生きるー聖者カリアッパ師との邂逅」
という本で、天風さんが聖者カリアッパ師との奇跡の出会い、その師の元で、悟りを開くプロセスの記録を読んで、「自我の思考を脇に置くことが、真の平安への道が開くんだ」と改めて納得しました。
本からの抜粋です。
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天風:カイロでおっしゃった話はいつ聞かせてもらえるのですか?
カリアッパ:カイロでなんといったかな?
天:「お前はまだ助かる人間だ。
しかし、大事なことを1つ忘れている。
教えてやるからついてこい。」と言われました。
カ:そうだったな、私のほうはついたその日から準備は出来ているよ。
天:「なぜ教えてくれないんですか?」
カ:おまえの準備ができるのをまっているんだよ。
納得がいかない天風をみて、カリアッパ師はこう指示した。
カ:2つの器を用意して、片方に水、片方に湯をいれてもってきなさい。
天風は言われるままに2つの器に水と湯を満たしてもってきた。
カ:その湯を水の器に注いで見なさい。
天風は馬鹿馬鹿しくなっていった。
天:「この国で、どうかは知りませんが、文明国生まれの民族は、一杯に入っている上に注ぐと溢れることを知っております。」
カ:それを知っているのか?
天:存じております。
カ:知っているなら準備できていないという意味がわかるだろう?
天:さっきの話とこれは違うでしょう。
カ:同じじゃ。分からぬなら教えてやろう
カリアッパ師は言った。
カ:この村についたその日から教えてやろうとお前をじっと見ていた。
お前の頭はわたしがどんなこと言っても見てもこぼしてしまう。
さきほどの水がいっぱいはいった器と同じじゃ。
いつになったら器の水をすてて空の器にするか見ていたんじゃ。
水をあければすぐにでも湯を満たしてやれるものを、いっこうに水をあけてこない。
おまえの頭の中はいままでの屁理屈がいっぱい詰まっている以上、私がどんな尊いことを言って聞かせても受け取れないであろう。
受け取れないものを与えるという愚かなことはしないよ。
天風はこころのなかで「最初から頭を空っぽにして来いといってくれたらいいのに」
と思いながら、
天:わかりました。と言った。
そこでカリアッパ師は微笑んで言った。
カ:わかったようだな。今日から教えてやろう。
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納得します。
「幸せの方法を知りたい!」って言いながら、頭はこれまで信じてきた「思考」でパンパンにしている。
なので、「普遍の声」「聖霊の声」は聞こえない。
自らが拒んでいる。
いつも圧倒的な愛を与えてもらっているのに、完全にスルーしている。
自我が退くまでは、氣づきは届かない。
別の表現で表すと、「幸せ」「平安」「喜び」を受け取る意欲を持つまでは、何も聞こえない。
なぜなら、自分が拒否しているのだ。
だから、自分を赦すことをゆるそう。
もう、自我で生きることをギブアップしよう。