自我への鎮魂歌。
自分のルーツ、、、思い出したら辛いし、萎えるし、苦しいし、悲しいし、悔しいし、怒りと憎しみが渦巻いている。
幼児期からの出来事をひとつひとつあげればキリがないし、ボヤけた描写じゃないと気がひけるし、無かったことにしたいほどの過去。
向き合う気になんか全くなれなかった。
かといって、小さい頃あった出来事を、さっぱり忘れて、鼻歌歌いながら軽く生きれるか?と言ったらそれもできない。
いつも宙ぶらりんで、地に足つけられない。
"今ここ"を生きられない。
ある日、自分を惨めさが最高潮になる出来事があり、どん底の生き地獄を味わった時、いよいよ決心した。
この感覚を終わらせる!!と。
そして、その頃、夫が「知りたいことをやったらいい」と言ってくれた。
今では、このことを私の内側のGO signだったと感じてる。
私の中に住み着いてる「恐怖」、その象徴としての血のつながりへの信念。
"祖父""祖母""父親""母親""親戚一同"に対する信念からの解放、卒業。
終わらせること。
目覚めること。
・・・・・・・
「目の前にあなたのお父さんがいますね、どんな風にみえますか?」
「お父さんは、私に気づいていません。見ようともしません。お父さんは、自分のお父さん(祖父)を見ています。"僕を認めて""僕をみて"、ってずーーーっと、自分の父親に認められようと必死に心で叫んでいて、私どころじゃないみたいです。」
「では、あなたがお父さんになってみて」
(父)「お父さん(祖父)、僕はここにいるよ。僕をみて。僕はここにいていい?僕はいつも頑張ってるよ。どうしたら、笑ってくれる?どうしたら、お前は偉いね、よくやってるね。お前がいると幸せだよ、と言ってくれる?何をすればいい?お父さん!」
祖父もまた、祖父の父親からの承認を求めていた事に氣づく・・・・・・・。
(祖父)「お父さん、どこにいるの?僕は捨てられちゃったの?僕は必要のない子だったの?僕は寂しい、怖い、ひとりは嫌だ、捨てないで・・・・・・・・。」
・・・
祖父も、父どころじゃなかった。
自分の子供どころじゃなかったのです。
祖父も複雑な事情で養子にやられた事を、セラピーの中で思い出しました。
みんなの向きが逆行していた。
みな、過去に埋没していた。
私は、最初はそんな事をすることすら気持ち悪くて抵抗があったけど、自分が父になり、祖父になってみた。
なんで、大嫌いな祖父や父にならないといけないのか?
なぜ、彼らの変わりに泣いたり苦しんだり慰めないといけないのか。
腹立たしかった、悔しい、私の中に入ってくるな!
乗っ取られたくない!!!
だけど、観念した。
今、ここには、私とセラピストの方だけしかいない。
これは、全て、私の記憶、私の思考の中のことなのだ。
私の中で信じていたストーリーなのだ。
と、いうことは、”終わらせるのは私”なのだ。
私は泣いた。
私は怒った。
私は恐れた。
私は嘆いた。
私は寂しさを感じた。
本当に本当に感じていること。
今出てくる感情感覚を出すだけ出した。
父に代わって、祖父に代わって・・・・・・・。
というか、私の中にあるものを。
終わらないじゃないかって気が遠くなりながら・・・・・。
光の元にさらした。
続きます。
・・・
「過去」の記事への、気づきの追記・・・(R6.5.27)
『どこまでも、自分が信じていることを体験してきたんだなぁということ。
信念を取り下げたら、実相に満ちていました。
"問題"だと思っていたことは、勘違いでした。
そして、そもそも、ただただ満たされていました。
「過去」のできごとがゆるみ、なんでもないもの、そして祝福へと変わるとき、
自我という時間軸は全体へと統合されます。』
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・