R6.5.18、編集し直しました・・・。

R6.5.29、さらなる編集驚き。題名も変える。⇒前は、「感情を凍結していると記憶はずっと残ってしまう」だった。

 

言語化しきれていなかった、"つながり"に気づいたので、それを書いてみる。

 

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感情は二重になっている。

 

以前、心理学で、感情には、「一次感情」と「二次感情」があると習った。

 

このことを、踏まえて、「感情」を感じることについて、書き直し。

 

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感情のほぼほぼは、外に向かっている「”被害者意識”による”二次”感情」。

 

この、外に向かう感情によって、内側の「”加害者意識”による"一次”感情」は温存されている。

 

自我は、分離意識。

 

自我は、この「被害者意識」によって「加害者意識」の信念を隠すことで、分離意識のままでいられる。

 

隠されている「加害者意識」に伴う一次感情とは、「加害者感」ゆえの、「申し訳なさ」=「罪悪感」=「自責」「恐れ」「絶望感」「虚無感」「悲嘆」「愚かさ」「暴かれる怖さ」「惨めさ」「悲しさ」「弱々しさ」「最低さ」「諦め」「ゆるされているありがたさ(申し訳なさ)」「わたしが作りました」「わたしが身体を利用しています」「わたしが分離を決めました」「わたしが最低最悪、悪人です」・・・(「悪人正機説」)

 

 言語化するとこんな感じで、これを認めちゃうと、「もう降参です」という、なんとも言えない「自我よさよなら、チーーーン」って感じになる。

 

そして、これは、常々述べている、「ストンと落ちる」というサレンダーへと通じていくのだった。

 

・・・

 

「自我」は「自我」のままでいたいから、「被害者」と「加害者」の両方を認めてしまうのを「抵抗」している。

 

「自我」のままでいることに徹底的に実直。

 

"降参する"と自我は消えてしまうため、必死に「防衛」していて、誰かや何かのせいにし、自分は無力だという「被害者意識」を作り上げ続け、演じている。

 

自分でかけた「被害者意識」という催眠(自己催眠)、”思い込み”によって、激しい情動の「二次感情」を生じさせ、感じる。

 

「被害者」であること、外側と分離してること、外側に気を取られたままでいることのための「悲しみ」「怒り」「攻撃性」「拗ね」「羨望感」「特別感」「欠乏感」「願望」「高揚感」を常に感じている。

 

こうして「被害者意識」の催眠にかかっている間は、「加害者意識の一次感情」は隠蔽されている。

 

また、「加害者意識」は「被害者意識」よりも深い自己催眠ということになる。

 

 「分離」を信じ、個人として、形の世界の夢を見続けるには、「過去」の「記憶」、そして「時間」が必要。

 

「二元性を信じている被害者的な意識」とその感情と、外に意識を向け続けることで気を反らし、それによって「加害者的」な一次感情を抑圧することで、「記憶」「時間」は信じられ、捏造され、「自我」のままでいられる。

 

いずれにせよ、自分がかけた「催眠」なので、とくのも「自分」。

 

思い込みでしかない。

 

実は「加害者意識」としての「罪悪感」にも薄っすら気づいているが、「罪悪感」をさらに責め、格闘してしまう。

 

自分が「加害者」でもあると思い込んでいたことをただ素直に受け入れることに「抵抗」し、自我を裁いたり、改善しようと自分を叱咤して、結果、「自我」を強化している。

 

ここは微妙なところで、なかなか言語化ができなかった・・・。

 

「罪悪感」をわかせたらダメなのではない。

 

「罪悪感」がある!「罪悪感」という思い込みがある!と認めること。

 

「罪悪感」を感じないように抵抗、抑圧するのではなく、「チーーーン」と無抵抗のまま、「意味をつけない」「思考を挟まないまま」受け入れ、感じること。

 

思い込みなのだから、思い込みを認めたら、消える。

 

これが「直視」。

 

「加害者意識」が潔く認められると、被害者意識」が消える。

 

そして、「被害者意識」が消えると、「加害者意識」が消える!

 

すべてから、「意味づけ」が消える!

 

おお~、統合!

 

あらためて、「”ストンと落ちる”」という自分の体験を言語化できて再認識できた・・・。

 

・・・

 

「加害者意識」と、その一次感情を感じることで、「降参」🟰「サレンダー」に導かれていく

 

「降参」=「サレンダー」=「全体性」「愛に溶ける」「本当の自分に戻る」「今ここ」にたどり着くのだ。

 

・・・

 

感情を感じるとは、「被害者」「加害者」の両方を自分が作ったと気づいたときの感情を受け入れるということ。

 

「被害者」「加害者」という「意味づけ」から離れる。(直視)。

 

結果、それは「サレンダー」。

 

自我的には、一見、しんどいし怖い。

 

自我はこれまでサレンダーしたことないから自我なのだから。

 

はじめてなのだから。

 

「もう降参」「わかりません」「負けた感」「間違ってました」「ごめんなさい感」「消えちゃいそうで怖い~感」「本当にゆるしてくれるの?感」「え、なんでもなかったの?というポッカリ感」「え、ゆるされてたの?という疑いの感覚」「安心感」「でも安心感の心許なさ感」。

 

言語化すると、こんな感じに色々どんどんわいてくる。

 

これらを感じることに「抵抗」しない。

 

「思考」に乗せないで、感じるままに。

 

そしたら、どんどん落ちてゆく、そして真からホッとする。

 

もう頑張って、頭ぐるぐるさせて、自我を捏造し続ける必要がないから、本当に安堵する。

 

そして、「あー、これが自然だった、、」とくつろぎが訪れる。

 

振り返ると、「あれ、なんでこんなに苦しんでいたの?」となる。

 

「記憶」、「時間」、「身体」、「自我」にリアリティがなくなっていく。

 

自我的なリアリティがなくなると、全体性として関われる。

 

「記憶」が残っていたとしても、癒されて、どうでもよくなる。

 

「時間」、「身体」へは、「意味」から解放された「今ここ」の新しさで関われるようになる。

 

結果、世界と愛で関われるように。

 

すべてが神の被造物、光として愛おしく感じられる。

 

丁寧に、冷静に、気楽に、意欲的に、真剣に、関われるようになる。

 

当たり前の日々が輝きはじめる。

 

 

「静寂」に戻るということ。

 

「聖霊」に戻るということ。

 

「全体性」に戻るということ。

 

「今ここ」に戻るということ。

 

「神」と一致するということ。

 

これは、ひとりでワークするより、誰か(兄弟)に「被害者」「加害者」の信念の感情感覚を打ち明るとパワフル。

 

隠さないでいいという安心。

 

握りしめていた信念は、互いにわかち合われて手放されていく。

 

相乗的に一緒にいる人もゆるまり、ゆるされ、癒されていく。

 

わたしたちは”ひとつ”だから。

 

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※「被害者」「加害者」の感情を受け入れ感じることと、「バイロンケイティさん」の「これ本当?」と信念を疑い、「信念」に乗らず、離れるというやり方は、一見違うアプローチですが、結果は同じ「全体性」「今ここ」に導かれます。

 

どちらかしっくりする方法、あるいは、どちらも体験してみるといいと感じています。

 

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~Humming~

 

人生の「苦しさ」「絶望」を真っすぐ見たら、"「個人」というパラドックス"に気づきました。

 

視点が「個人」から「全体」へ移動しました。

「今ここ」・「在る」。

 

【Humming】 HPです➡

https://kuzira826.wixsite.com/humming

 

 

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★YouTubeにて、【オープンハート誘導瞑想】公開してます。→●

 

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コチラ(hatena blog)では、「奇跡講座」のレッスンの記録等を書いてます。~

 

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。