Sea Voice

 

パリのノートルダム大聖堂の中をガイドさんの説明を受けながら回っている時に、なんと、私はグループとはぐれてしまったのです!

 

”迷子”です。

45才の迷子。

 

と、言っても建物の中なのだから、出口で待っていれば出会えるはずだし・・・・と、そこまで焦りませんでしたが。

 

大聖堂の中は、ロウソクの薄明かり。

観光客と、礼拝に来ている人、聖母への巡礼者の大群衆でごった返してて、グループの方々を誰も見つけられません。

 

はぐれていなければ、結構ディープな説明をしてくれるガイドさんのノートルダム大聖堂の裏話などを聴きつつ、見事なステンドグラス、建物内の芸術品、を堪能のはずだった。

 

でも実は、そんな気になれていなかったのです。

 

だから迷子になったのも必然。

この空間から一刻も早く離れたかった・・・。

さっさと出口に向かい、そこでみんなを待ったのでした。

 

わたしは、ノートルダム大聖堂での、従順そうに見える懺悔の姿や妄信的な人々の感じを受けて、そこに至る全ての歴史、はたまた、この世すべての、集合的な人間の意識に嫌気がさし、憎悪がこみ上げたのです。

 

建物に入った途端に、瞬間湯沸かし器のように、大きく動揺し、頭がクラクラしていました。

 

・・・

 

イエスのメッセージは、歴史の中で、そして人間のご都合によって、何層にも塗り固められ、歪曲され、誤解されて、発信されてきました。

 

ましてや、イエスを(処女光臨)産み落とした聖母マリアも、これまた謎と言えば謎な訳で、人間達はどうにでも改ざんできます。

 

人間はそれぞれの思惑で、「真実」を「恐怖」にすり替えて、利用してきたと思います。

 

わたしは、目の前にそびえ立っている圧倒的な存在のノートルダム大聖堂が、人間の「恐怖」の象徴だと感じたのです。

 

「恐怖」の、圧倒的な魅力。

 

その酔っ払い具合に嫌気がさして、その挙句、迷子になりました。

 

これはこれでどこかで面白がってもいますが・・・。

 

・・・

この感覚を誤魔化さないでいたいです。

 

まだちゃんと言語化できませんが・・・。

 

また、どこかで、この感覚を整理して書きたいです。