手続というのは、どんな場合でも簡易・迅速をもってよしとする考え方かおり、また、「すべて同じようにしないと平等ではない」というプリミティブな考え方があったわけです。これも悪しき平等主義の現れなのかもしれません。しかし、紛争、トラブルにもいろいろなものがあり、全部のケースを同じ手続でやる必要はないのです。ある種の事件は簡易・迅速にぱっぱっと解決してもよいでしょう。
そういうものをわざわざ陪審裁判にかける必要など全くないわけです。正しい記録や契約書などもしっかりと揃っているようなケースであれば、誰が見ても判断がしやすいでしょう。肝心なのは、当事者が「もっと徹底的に真相を究明したい、究明する必要かおる」と思ったときに選ぶことができる制度かおるかどうかです。まずは徹底した証拠開示制度かおり、最後の砦として陪審裁判が控えていて、それが時として機能を発揮するというシステムが存在することに、大きな意味があります。
権利を実現するために苦労をして賠償金を勝ち取るのは、タナボタとは違います。裁判による賠償金は、保険金のように簡単な審査だけで自動的に下りるものでもないのです。だからといって、裁判手続を簡単に済ませることもできません。手続を簡易なものにして手を抜くと、かえって誤った処理がされてしまう心配があります。その意味で、ある程度は面倒な手続が避けられないことも理解してほしいと思います。むしろ、この面倒な手続を前提にして被害救済のために手開ひまをかけたら、それなりに賠償の金額や方法を割の合うものにするのが合理的であるはずです。
例えば、証拠の出し惜しみなどで無理な抵抗をしたら、そのコストを負担させるとかのペナルティを科すことも考えるべきでしょう。不正義が根本的に改められるような、そうした努力を払って、裁判で白黒をつけて初めて、本当の意味で権利が実現されたと言えるのではないでしょうか。裁判にかかる時間や労力などのコストをすべて権利を実現した人の負担にするのは、結局のところ「権利の目減り」と呼ばれる結果をもたらします。