人間の眼が写真機のように受動的に働かないために、かえって誤った判断を下すこともあることについて述べよう。それは錯視といわれる現象である。
錯視にもいろいろの種類があるが、ここでは、特に錯誤の性質の強いものについて見てみよう。そのうちには直線に関するものが多くある。つまり「直線が曲がって見えるもの」、「平行線が平行に見えなくなるもの」、「直線上にあるべきものがそうでなくなるもの」などである。
たいていの場合、直線は補助線との間の角度を直角にする方向へ曲がって見える。ではこの「直角化傾向」ともいうべきものはどこからきているのだろうか。私たちが日常接する事物は直角に交わる二線を合んだものがたくさんあり、窓、マッチ箱、道路等々、いくらでもあげることができる。
しかし、三次元の世界に住む私たちにとって、これらのものが真に直交する角を真正面から私たちに見せることは稀なことである。むしろ私たちはこうしたものを、ななめから見なれている。すると眼に与えられるものは、直角ではなくて、種々の大きさの鋭角であり、鈍角ということになるだろう。
私たちはたいていの場合、これらの鋭角、鈍角から直角を類推するわけであり、こうしたことが何回も続けられると、しまいには直接眼に与えられたすべての鋭角、鈍角を自動的に直角化するようになる。しかしそれは普通の場合には、つまり、近くに影響を及ぼされる線がない限りは、はっきり意識されないのである。
そういう線があった時、つまりそれが鈷祝図になるわけだが、その時に、はじめてそれがはっきり意識化されるわけである。このほか錯板図には大きさに関するものもたくさんあるが、すでにのべたように、物の大きさは網膜にうつったその物の像の大きさにはほとんど無関係である。
むしろ、そのまわりのものの大きさとか、そのものが一部分を成している物体全体の大きさ等が大いに関係する訳であり、大きさの錯板もそのようにして生じてくる。
たとえば、周囲にある図形の大きさいかんによって同じ大きさのものが大きく見えたり小さく見えたりするし(エビングハウス)、またそばにある図形の、たまたま近接した部分が短いというだけで、その図形はより大きく見える(ジャズドロー)。また同じ長さの線でも、それが一部を成している図形の大きさいかんによって、長くも見えるし、短くも見える。
このように錯板は、私たちの視覚が日常生活の間に知らないうちに行なっている調節作用、適応作用をいわば明るみに出してくれる一つの手だてとなるのであって、決して単純な錯誤とのみいいきれるものではないのである。むしろ、もっと多くの鈷板現象を研究することによって、私たちは人間の眼の本当の働き方をもっともっと深く知ることができるようになるのではないだろうか。