百田尚樹さんの「フォルトゥナの瞳」を読みました。主人公は街のなかで、指や手が透明になった人を見かけます。何度も見るうちに、その現象は死にそうな人が透けて見える能力だと気づきます。当然ながら、自分の不思議な能力に戸惑います。
さらに、その人の行動を変えることで、死神から遠ざけることができると知ります。ただ、人の寿命を伸ばすことは、自分の命を削ることに繋がるという恐れもあります。人を助けるか、自分の幸福を取るか。究極のジレンマです。
都合の悪いことに自分の寿命は分かりません。占い師が自分の運命を占えないという、よくある辻褄合わせです。競馬の予想屋とか、経営コンサルタントと同じ屁理屈です。「コツを掴んだのなら自分でやった方が儲かるのに」というやつです。
そば屋をやっている頃、「死神蕎麦屋」という小説を書き始めました。小さな蕎麦屋へ死神がやって来てアルバイトとして働くという、どこにでもありそうな物語です。途中でアイデアが枯渇し挫折して、才能の無さを嘆きました。
死神はアカシレコードが読めるという設定にしました。アカシとは、生まれて死ぬまでが全て記録されているというインドの教えです。目の前の人のアカシレコードを読むことで、死にそうな人を見つければ良いのです。
それはさておき、普通の人間は寿命が分かった方が良いのでしょうか。あと何年と知らされたら、残りの人生を幸せに生きられるでしょうか。もし本当に寿命が分かるとしても、知りたくないと思う人も多いでしょうね。
結論からいえば、僕は知りたくありません。百歳まで生きることにしたので、これから何をしようか楽しみにしています。あと何年と分かったら、せっかくの楽しみを減らされるような気がしておもしろくないからです。
ところが、ガンの宣告をされた時は5年後生存率が気になって調べました。口で言うほどカッコ良くは生きられないようです。「人生はお金じゃないよ」と公言しながら、宝くじを買うようなものです。これも僕のことです。まあいいか。