現在の世界(の実相) | 暇人の愚痴

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 そもそも世界経済、国際経済の基本は、人間が自然状態で格差を求めるのか平等を求めるのかという傾向である。この問題は、資本主義ではない国のことも考えれば、地球社会の歴史のあり方の基本的な取り組みの基礎を形作っている。

 逆に言えば、この繰り返しが世界史の実相であり、しかしの日本のマスコミなどは、このような基本を軽視して、論理的な世界観にはまろう、はめようと必死になっている。

 

 世界の実態は政治と経済が分離していっているのに、一部の政治と経済の一致、合体を目指すマスコミや科学論者は、一昔以上前の西欧的効率化を追い求め、自分たちも言っていた(企業)合理化とは、程遠い状態である。

 そこでは市場生成における人類の課題、あり方を軽視し、市場資本経済のあるところだけで良いという、途上中堅を馬鹿にし考慮せず、多くの国が食えない状態であることを軽視し、今もそれを拡大しようとしている。

 

 世界的な貧困と飢餓などは、もはや政治的意味を失った状態で、何万人もの人間が生きることのできない状態に至っている。それらを軽視して、一部の先進国と同位に動こうというのは、それこそ世界政治を無視した仕業である。

 極端な途上をほおっておいて、ごく一部となった極端な先進化を目指すというのは、理論的にも現実的にも人間として無理である。そういう洗脳に疑問を持つ多くの人々に、旧態だの独裁的だのと論理議論をせず、民主主義なき自由主義を強要している。

 

 人類が、自然や人工とうまく付き合い共栄を目指していた現実派,現代の食えない人類の実態を無視した豊かさ論、物作りに超格差を持ち込んだ資本新植民地的発想など、多くの矛盾を考えずにいる姿勢は、世界中から非難を受けている。

 これまで生産と消費(論)を繰り返してきた政治、それを経済だと言い張る一部のインテリの指導力が、地球的な共栄を望む国民とは、程遠い現実を作っている。

 

 豊かな者、金持ち、黒字初範が貧しい者、貧乏人、赤字初範に経済的援助を与えず、個々の国家が自力で平等や維持を望むことは、自分勝手な理屈に過ぎない。

 現実、多くの日本人が世界中でこの問題に挑み、最低限の平等や指導を行っている。それらを知りながら、日本人は日本の事だけ考えていればいいというのは、政治と経済の悪しき関係を拡大する一方である。

 

 人間の世界の経済の基本とは数と質、量と質である。例えばここに百円あって、それでひとつ一円の饅頭を百個作るか、十円の饅頭を十個作るか、百円の饅頭を一個作るかである。それを考えるのが国際経済である。

 その時どれをどれだけ作るかは、社会次第である。また儲けも、その社会次第だということもできる。そこで問題は、それを作る人をどう集め、給料などをいくら払うかである。またその材料にいくら払うかである。儲けを分け合う時も同じである。

 

 また他からもう百円借りて、二百円の饅頭を(一個)作るのを芸術という。このようなことを無為な無駄だというのも、格差的国家の現状を軽視した、いわゆる昭和のエコノミックアニマルのまねである。

 平成になって(平等を旨とした)新しい流行や世界言動への挑戦は大きな成果をあげ、日本社会を良くしてきた。しかし金持ちと貧乏(人)が争いをするのは、一種新種のマルクス主義である。

 

 本当の自由主義は、社会主義や共産主義(国)を排除しないし、民主主義に関し健全正常な関係を持っている。しかし今の日本(の政治)は、それらを軽視し、頭の中で作った社会をどうし、自分たちを維持するのかという問題ばかりに関わっている。

 資本や市場というものが世界史的にいつ頃成立したかは定説がなく、世界の努力を無視するばかりで、古代、中世、中代、近世などの諸社会を破壊し混乱させ、近代に何が起こったのかばかりを問題にし、それを解決できない一国主義の仕業である。

 

 古い社会でも、社会というものが成立するところでは市場も資本も成立している。しかしそれに対する色々な政治的諸勢力により色々な体質や対立が起こってきた。今の世界もそうなりつつある。

 本当の現世現代とは、そのような傾向を認識する上に、これまでの世界の諸相(の進化)を位置づけることが必要である。それを逆行するようなおかしな経済論を唱える、非現実的な一部のインテリを信じる必要もない。

 

 本当の経済の混乱が起これば、政治も文化も社会も歴史的国家も崩壊する。そのような新しい植民地主義を実行する今の日本のマスコミには呆れるばかりである。自分の力で働かず、人を働かせることで生きよう、儲けようとするのはもちろん悪である。

 特に男女問題、植民問題、移民問題、難民問題(、民族問題)などをなおざりにする今の若手マスコミ人に何も言えない大人や専門家ばかり映っている今のテレビには、見た後の無力感が消えない。

 

 それが世界にみられていることに焦り、どうしていいのか分からない若手をちゃんと指導する人もいないマスコミは、いかにそれが事実であると言いはっても 、結局フイクション(小説)であるにすぎない。

 色々な分野の問題を何でも政経の一致の中で論じようという(ことを若手に強要する)姿勢と、ノンフイクションでもあるネットとの分立を図ろうとする、大人が見たい総合的事実を作れないメデイアは、いずれ崩壊する。

 

 まして現在の問題は、どれくらいの大きさの中で自分が主役になれるのかということで、昔は区域であったのが町になり市になり国となり、今や世界となっていることである。(村は実際にそれらとは形が違う。)

 それを今や、主権(者)の問題にすり替えようとし、東京と田舎の極端な報道を増やし、地方都市や郊外などのいい例をあげない、自治の滅びた日本を作ろうとする姿勢にだれが責任を取ってくれるのだろうか。

 

 町では需要に供給を合わすが、村では供給に需要を合わす。今の先進(日本)に勘違いがある。途上、古生から現世、未来まで、幅広い地域を持つ日本だからの良さを壊して、一体日本をどうしよう、導こうというのか。

 また市場も拡大し、制御が利かなくなり、世界的になった日本の企業経済に、今昔の規模の再生、地域化が求められている。インバウンドやオーバーツーリズムに瀕して、やっと政府もマスコミも事の重要性に気がついたようである。

 

 モノの大事さと心の大事さは簡単に一致するものでもない。それを安易に論理的な正義感だけで判断するのは、毎日頑張り自治を行う多くの国民についていけない現実を呼ぶ。

 子供であっても高齢者であっても自分(や家族)たちの力でできる嬉しさを求めるのが今の日本である。ましてそれらの経済的弱者ばかりを念頭に置き、大人などを見ないマスコミは、本当の努力に気がついていないともいえる。

 

 少子化が進めば外国人が多く日本に来る、多子化なら多くの日本人が外国に行く、このような現代経済の問題さえまともに考えていなかったとは、考えられないことである。

 広がった企業や国民には当然追い付かず、阻害される田舎地方に今更驚く様子のマスコミは、この国の過去未来歴史などに対し健全正常な知識や判断を持つ高齢者や大人に対し力を入れないと、急に色々なことが変化するのについていけなくなるだろう。

 

 自分でできる喜びを目指して、全ての日本人が頑張っている。子供や高齢者などにもその喜びを分かち合えるようにすることが、現在の日本の急務である。またそういう人たちを助け、救うことこそ、日本が先進と言われる状況を作り出す。

 それを軽視して、気持ちの良い今、毎日をする努力を軽視するマスコミだけでは、毎日の目の前の喜び、努力さえ実感できない世代や国民を、増やしてはいないだろうか。