オリジナル小説 「座席」 前編
僕が、横浜に住んでいた頃の話です。
京浜東北線は、まだJRになったばかりで、運賃が高くて、
京浜急行やら、東横線やら、私鉄の方が利用客が多いらしい。
でも、会社から定期券をもらっているので、それで通勤していたのです。
そんな状況なので、座ろうと思えば座れるのですが、
短時間の乗車だし、大抵は、出入口付近で立っていることが多かった。
当時は、ウォークマンを聴いている人や、
マンガや新聞や文庫本を読んでいる人がいたりしたんですが、
僕はどうも、乗り物で本を読むと、酔う傾向にあったし、
ヘッドホンから音漏れするシャカシャカも、あんまり好きじゃなかったので、
景色を見たり、人間ウォッチングをする方が多かったかな。
時たま、終電くらいになると、酔っ払いの匂いが充満して、
ほぼ満席くらいになりますが、僕は座りません。
(だって、年寄りに睨まれるのが嫌なんだもん)
空いている座席を奪い合うおばちゃんたちを見ていると、
何だか滑稽で、でも疲れているんだろうなあ、なんて思っていたら、
座っても、おしゃべりに夢中だったりして、見苦しいなあ、なんて。
で、ある日のこと。
帰りの電車で、ほぼ満席だな、と思っていたら、
…おやっ。
優先席でもない、普通の座席が、1つだけ、空いている。
車窓を背にした、横座りの席の、奥から2番目。
お~い、ここ、座れるぜ、皆さん~
こんなに混んでいるのに、何でここだけ?
たぶん、誰かがゲロでも吐いて汚れてたのかな、くらいに思っていました。
ところが…
注意して観察すると、
朝であろうが、夜であろうが、どうも「そこ」には、誰も座っていない。
この車両のスタイルに関係あるのか、よくわからん。
別に、大したことじゃないんだろうけど、ついつい、「そこ」に目が行ってしまうんですね。
そういうことが、5~6回ほどあった後、
ついに、「そこ」に座っている人を見かけました。
OL風の、ちょっときれいな女性。
なあんだ、問題ないじゃん。僕の思い過ごしだったんだ。
次の駅に到着すると、彼女は、突然、立ち上がりました。
…猛ダッシュ。
ずいぶん、急いでいるんだなあと思っていたら、
彼女、口をおさえて走っています。
入口に立っている僕にぶつかりそうになりながら、通り過ぎ、
ホームに降りると、その場にしゃがんで嘔吐しました。
うひゃ~
乗ろうとしていた人は、一瞬で散り、他のドアから乗りました。
ドアが閉まり、電車が動き出すと、駅員が彼女のいる方向へ歩いて行くのが見えました。
う~ん、どうしたんだろ。
電車に酔う人なんて、あまりいないだろうし、
たまたま体調が悪かったとか、飲み過ぎたとか、
もしかして、つわりとか…
ますます、あの席が気になってしまう。
そんなことがあって、しばらくは、誰も座っていませんでした。
よし、ここはひとつ、僕が座って試してみようか、とも思ったのですが、
いつも立っている若者が、急に座ったら、不自然かなあ、と。
僕なんて、誰も見ていないのに。
いざ座ろうとすると、躊躇してしまうんですよね。
そしたら、またまた見かけたんです。
終電より少し前くらいの電車で、程よく満員くらいの乗客数。
「そこ」に、肌のきれいな女性が座っていたんです。
彼女は、平気な様子でした。
うつむいて、ハンドバッグの上に、両手をのせています。
一駅、二駅…
何も、起こりません。
なあんだ、やっぱり、問題ないじゃん。
乗客が、どんどん降りて行きます。
彼女は、座り続けています。
最寄りの駅に到着したので、僕は、普通に降りました。
ホームから振り返って見ると、
彼女はもう、「そこ」にいませんでした。
あれ、この駅で降りたのかな?
電車は、動き出して行きます。
キョロキョロしたけど、彼女らしい人は見当たらない…
まあでも、もし見つけたとして、どうするんだよ。
あの席に座って、何ともなかったですか、なんて聞けるか?
それじゃ、僕が変質者みたいじゃん。
何だか釈然としないままに、家に帰りました。
その、一週間後。
週末はやっぱり仕事が遅くなることが多くて、終電ギリギリでした。
さて、あの席は…
お、いたいた、肌の白い、あの女だ。
彼女にとっては、座り心地がいい、お気に入りの席なのかもしれない。
電車は、酒臭い車両に蓋をするように扉を閉め、走り出しました。
ようし、今日こそは、彼女が降りる瞬間を見逃さないぞ。
僕の降りる駅まで、あと2つ。
その時になって、妙な違和感を覚えました。
季節は、秋。
僕は、パーカーを着ていました。
でも、彼女は、ノースリーブ。
肌がきれいだなあと思った時点で、おかしいと気づくべきでした。
寒くないのかな。
もしかして、お店が終わった後なのかも。
何か、肩にかけてあげたい気分になるけど、
単に、暑がりなだけなのかもしれないしなあ。
…ゴトトン、ゴトトン。
…ガタンガタン。
透き通るような白い腕を露出した彼女は、
両手をハンドバッグの上に置いたまま、ずっと、うつむいていました。 (つづく)