映画 「ユリゴコロ」
生きることが苦痛であればあるほど、殺すことが快感だったりするのかも。
タイトルの言葉には、ちゃんとした意味があるのですが、
映画を見ればわかることなので、あえて言わないでおきます。
生まれながらの殺人鬼、ナチュラル・ボーン・キラーという存在は、
たぶんいないと思うんですが、
この映画を見て、色々考えてみたくなりました。
人を殺す、という行為は、異常な精神状態でないとできない。
そうなったいきさつとか、動機があって、何かが引き金になっちゃう。
さて、この映画、なかなか手強い面白さがありますよ。
ストーリーだけをなぞっていくだけでは、絶妙な場面を見落としやすいかも。
その意味では、冒頭から、じっくり見て頂きたいですね。
子供の頃から“おかしかった”という感じにはなっているけど、
母親の接し方とか、子供の反応の描写が、おおっと思いました。
「心を病む」というのは、「病んでいなかった状態」が前提にあるわけで、
感受性が強いからこそ、自分で自分を追い込んでしまう側面がある。
子供のうちは、俺的には、まだ心が「出来上がっていない状態」だと思うわけで、
他の子供が簡単にできることができないというだけで、
「ウチの子はダメな奴。こいつはハズレだ」と思う親がいたら、最悪でございます。(実体験)
マコーレー・カルキンの「危険な遊び」を、思い出しました。
あの少年の“犯罪”は、“遊び感覚”だったような…
無邪気な悪ふざけが、いじめや殺人に発展していくんですよね。
たぶん、原作小説だと、その辺は詳しく書かれているのかもしれないけど、
俺は、映画からの心理的な情報だけで、充分想像できました。
だから、一見偶然に見える場面も、決して不自然ではないんですな。
俺は、おっさん世代なので、父親の所作が気になりました。
なるほど、最初に感じた違和感は、間違いではありませんでした。
やっぱりねえ、家族とか、親子っていうのは、
一緒に暮らしているんだから、態度や言動に、全てが出てしまうものなんじゃないかと。
一見、穏やかに見える夫婦も、何か抱えている感っていうのは、確かにある。
そういう意味では、健全な家庭っていうのは、あり得ない気がするのです。
何か問題を抱えていて、それでも寄り添える“何か”あれば、生きていける。
主人公が、ずっと探してきたものは、
俺が幼少の頃から感じていた「疎外感」と、見事に共鳴していく。
それが、時折、とても痛々しくて、
切ないんだけど、ある種の快感を得る。
人は、どういう人と出会うかで、人生がまるで違うものになっていくのだ。
それは、人の心そのものが、生き物である証拠。
俺は、この映画を、
自分の「もうひとつの物語」として、しっかり味わいました。
人は、生き物を殺さずには、生きていけない。
だから、食事の時は、いただきます、と言いましょう。
怖いと思うのは、
映画の中で、殺されていく「生き物」を、
こいつは、よし。
こいつは、かわいそう。
そういう風に「選別」してしまう自分を発見することかもしれないですね。
時代劇でも、西部劇でも、アクション映画でも、パニック映画でも、
こいつは死んでもいい、と観客が思った途端に殺されちゃうもんでしょ。
条件さえ揃えば、誰でも、殺人を平気で行ってしまう可能性があるんですね。
人の命は、重かったり、軽かったり。
大切な人の命は、重く。
他人の命は、軽く。
殺されるだけのことをしたんだから、しょうがない。
あんな奴、死んでしまえばいい。
口には出さなくても、誰でも、思うことなんです。
さあ、映画の中で、悪人を探して下さい。
何人、見つかるかな?
俺は、心が歪んでいる人間なので、歪んだ物語が好きです。
年を取る度に、ますます、傾斜が激しくなっていくように感じます。
映画は、満たされない欲望を、発散させてくれます。
R指定ではなく、PG12にしたところがエライ。
大人も子供も、この映画をしっかり見て、
自分の感覚で味わい、考えて、語り合って欲しいです。
…果たして、殺人は、本当に楽しいのか?