U-NOTE Ⅱ 「楽しむことの罪悪感」
少しだけ、
ほんの少しだけ、
回復してきました。
一日の大半は、不安と恐怖と焦燥の中にいます。
それでも、ちょっとした「いいこと」があると、
ちょっぴり、嬉しく感じるようになりました。
しかし、その反面、「悪いこと」が起こると、
途端に、ひどくすっかり落ち込んでしまうのです。
そんなことって、ずっと昔からあったような気がします。
基本、自分がダメな人間だと思いこんでいる男は、
うまくいかなくて当たり前、と考えます。
それがプラスに作用すれば、堂々としたキャラになれますが、
マイナスに作用すると、どこまでも、ネガティブになっていきます。
子供の頃は、まだ無邪気に笑っていた自分がいたように記憶していますが、
物心ついた頃からは、「自然に笑う」ことが、次第にできなくなっていきました。
俺が楽しそうにすると、機嫌が悪くなる存在がいつも身近にいたからです。
(20行ほどカットしました。見苦しい文章だったので)
いつしか俺は、物事を楽しむことが、怖くなりました。
楽しい時間の後は、必ず嫌なことが起こるからです。
これはきっと、楽しんだから、バチがあたったんだ…と思うようになりました。
だから、楽しみは、密かに、誰もいないところで、ひとりで味わう。
それなら、俺が楽しんだことを、誰も気づかないから。
映画館は、誰にも邪魔されずに、映画を楽しめる避難所でした。
図書館も、誰にも邪魔されずに、読書を楽しめる避難所でした。
(外で遊ばない子はダメだ、と言われていた時代だったけど)
楽しいひとときを過ごした後は、いつも、憂鬱になります。
きっと、今度は、嫌なことが起こるに違いない…
そんな法則はないはずなんですが、
長い年月をかけて、そういう思考が身に付いてしまったんだから、どうしようもない。
楽しい状況が台無しにされた時のショックって、耐え難いものなんです。
穏やかな雰囲気が豹変していく恐怖って、計り知れないものがあるんです。
いつも何かに怯え、ビクビクして過ごさないといけなかった。
だから、感情の振れ幅を小さくして、ダメージを受けにくい工夫をするようになった。
その結果、無表情で、暗いキャラができあがりました。
性格が暗いと、バカにされた時代です。
ネアカがもてはやされ、ネクラはオタクと同義語で、見下されました。
そういう状況の中だからこそ、作品を心でより深く味わう力が、ついていったのかも。
いい映画に出会うと、生きる意欲が湧きます。
いい本に出会うと、考える領域が広がります。
楽しんだぶんだけ、嫌な代償を払うことを差し引いても、
いい映画、いい音楽、いい本、いい絵画から得られる喜びが大きいのです。
そうやって、命をつないできた…
いい映画に出会うと、もういつ死んでもいい、と思う覚悟する反面、
生きていたら、また別のいい映画に出会えるかも、と思う。
心優しい人に出会えて、いい時間を過ごせた時は、
その人と時間を共有できてよかった、いう思いと、
生きていれば、また会えるかも、という思いも交錯する。
ほんの少しでも、「楽しい時間」「生きた時間」を過ごせれば。
はるかに長い「苦痛の時間」「死んだ時間」に耐えられる…
幸せなひとときは一瞬。
地獄の苦しみは一生。
安らぎは、あっという間に、消え去ってしまう。
ただ、その感覚だけ、余韻だけをしっかり覚えておきたい。
冒頭の話に戻りますが、
小さな「いいこと」を感じると、ほんの少し、元気が出るようになってきました。
それは、次の瞬間にはなくなってしまうものだけれど、
それを感じる部分が自分の中にあるということは、
生命力がまだ、残っているということ。
うつ病で、気をつけなければならないのは、
楽しみ過ぎないこと。
うっかり、ハイテンションになってしまうと、
その直後に、必ず、急激な落ち込みがやってきます。
うつの人を励まし過ぎて、元気そうだと安心して別れたら、
その直後に自殺したなんていう話はよくあります。
俺、そのメカニズムがわかる気がするんですよね。
いつも、感情にブレーキがかかっている状態。
いくらアクセルを踏んでも、進みません。
うっかりブレーキを緩めてしまうと、どこに行くかわからない。
ブレーキは、自己防衛本能なんだと思う。
楽しんではいけない。
幸せな気分を味わってはいけない。
目の前にいる人を、楽しませなければならない。
相手を喜ばせて、初めて、ここにいることが許される。
役に立たなければ、見捨てられる。
ありのままの自分は、決して受け入れてもらえない。
自分の意見を言おうものなら、場の雰囲気が崩壊する。
人を好きになってはいけない。
欲望を持ってはいけない。
夢を持ってはいけない。
人から、好かれてはいけない。
過剰な期待を、抱かせてはならない。
どうせすぐに、幻滅されるだけだってことがわかっているから。
毎日、少しずつ、死んでいく。
しかし時たま、もう少しだけ生きようと、もがいている自分がいる。
生きたって、苦痛がほとんどなのに。
人をがっかりさせてばっかりの人生なのに。
少しだけ、いいことがあって、
少しだけ、元気が出て、
少しだけ、微笑んで…
「楽しむ」という行為自体は、「悪い」ことではないのかもしれない。
ただ、人を貶めたり、残虐非道な行為をして楽しむのが悪いんだと思う。
自分の中にも、そういう血が流れていると思うと、悲しくなってしまうけど、
その愚かさに気づいた瞬間から、流れは変わっていくのかもしれない。
それなら、自分なりの、やり方があっていいはず。
俺の血は穢れているけれど、こんな苦悩は、俺の代で終わりにしたい。
娘は今のところ、明るくて社交的な方向に育っています。
俺が死んだら、妻と二人で、強く生きていけるでしょう。
(旧姓に戻れば、俺の父親とは縁が切れるはずだから)
家族というのは、本来、自由に意見が言える関係であって欲しい。
権力を振りかざして、弱い者いじめを公然と行う関係であってはならない。
発言が封印され、好きな道にも進めない、監獄のようにしてはならない。
もっと、俺が、強かったら。
もっと、俺が、しっかりしていたら。
家族の中で一番弱い立場だった俺は、
祖父にも、父親にも、意見を聞いてもらえなかった。
殴り合ってでも、主張すべきだったんだろうか。
怒りに対して怒りで応戦するのは、あまりにも悲しい行為だと思う。
俺はいつも、悔し泣きしかできない、無力な少年だった。
そんな俺が、家庭を持ってよかったんだろうか。
でも、娘が生まれて、希望も生まれて、
3歳くらいまでの間に、もう一生分の親孝行をしてもらって、
この子だけは、自由にのびのびと生きてもらいたい、と思って。
親父の魔の手が、娘に及ばないように、俺がもっともっと、しっかりしなくちゃ。
色んな思いが湧いて、打ち消して、また浮かんで…
ここ1ヶ月くらいの間で、すっかり老け込んでしまったように思う。
体重もたぶん、一段と落ちてしまった。(あばら骨が目立つようになった)
来週は、7日連続勤務の予定。
体がもつかどうかはわからないけど、
家は、安心して休める場所ではなくなったので、
毎日、5時半に起きて、逃げるように、農場に向かう。
疲れています。
でも、体が勝手に動いてしまうのです。
そこに行けば、俺を必要としてくれる人たちがいるから。
まだ、もう少し、やれそうだから。
ほんの少しだけ、
回復してきました。
一日の大半は、不安と恐怖と焦燥の中にいます。
それでも、ちょっとした「いいこと」があると、
ちょっぴり、嬉しく感じるようになりました。
しかし、その反面、「悪いこと」が起こると、
途端に、ひどくすっかり落ち込んでしまうのです。
そんなことって、ずっと昔からあったような気がします。
基本、自分がダメな人間だと思いこんでいる男は、
うまくいかなくて当たり前、と考えます。
それがプラスに作用すれば、堂々としたキャラになれますが、
マイナスに作用すると、どこまでも、ネガティブになっていきます。
子供の頃は、まだ無邪気に笑っていた自分がいたように記憶していますが、
物心ついた頃からは、「自然に笑う」ことが、次第にできなくなっていきました。
俺が楽しそうにすると、機嫌が悪くなる存在がいつも身近にいたからです。
(20行ほどカットしました。見苦しい文章だったので)
いつしか俺は、物事を楽しむことが、怖くなりました。
楽しい時間の後は、必ず嫌なことが起こるからです。
これはきっと、楽しんだから、バチがあたったんだ…と思うようになりました。
だから、楽しみは、密かに、誰もいないところで、ひとりで味わう。
それなら、俺が楽しんだことを、誰も気づかないから。
映画館は、誰にも邪魔されずに、映画を楽しめる避難所でした。
図書館も、誰にも邪魔されずに、読書を楽しめる避難所でした。
(外で遊ばない子はダメだ、と言われていた時代だったけど)
楽しいひとときを過ごした後は、いつも、憂鬱になります。
きっと、今度は、嫌なことが起こるに違いない…
そんな法則はないはずなんですが、
長い年月をかけて、そういう思考が身に付いてしまったんだから、どうしようもない。
楽しい状況が台無しにされた時のショックって、耐え難いものなんです。
穏やかな雰囲気が豹変していく恐怖って、計り知れないものがあるんです。
いつも何かに怯え、ビクビクして過ごさないといけなかった。
だから、感情の振れ幅を小さくして、ダメージを受けにくい工夫をするようになった。
その結果、無表情で、暗いキャラができあがりました。
性格が暗いと、バカにされた時代です。
ネアカがもてはやされ、ネクラはオタクと同義語で、見下されました。
そういう状況の中だからこそ、作品を心でより深く味わう力が、ついていったのかも。
いい映画に出会うと、生きる意欲が湧きます。
いい本に出会うと、考える領域が広がります。
楽しんだぶんだけ、嫌な代償を払うことを差し引いても、
いい映画、いい音楽、いい本、いい絵画から得られる喜びが大きいのです。
そうやって、命をつないできた…
いい映画に出会うと、もういつ死んでもいい、と思う覚悟する反面、
生きていたら、また別のいい映画に出会えるかも、と思う。
心優しい人に出会えて、いい時間を過ごせた時は、
その人と時間を共有できてよかった、いう思いと、
生きていれば、また会えるかも、という思いも交錯する。
ほんの少しでも、「楽しい時間」「生きた時間」を過ごせれば。
はるかに長い「苦痛の時間」「死んだ時間」に耐えられる…
幸せなひとときは一瞬。
地獄の苦しみは一生。
安らぎは、あっという間に、消え去ってしまう。
ただ、その感覚だけ、余韻だけをしっかり覚えておきたい。
冒頭の話に戻りますが、
小さな「いいこと」を感じると、ほんの少し、元気が出るようになってきました。
それは、次の瞬間にはなくなってしまうものだけれど、
それを感じる部分が自分の中にあるということは、
生命力がまだ、残っているということ。
うつ病で、気をつけなければならないのは、
楽しみ過ぎないこと。
うっかり、ハイテンションになってしまうと、
その直後に、必ず、急激な落ち込みがやってきます。
うつの人を励まし過ぎて、元気そうだと安心して別れたら、
その直後に自殺したなんていう話はよくあります。
俺、そのメカニズムがわかる気がするんですよね。
いつも、感情にブレーキがかかっている状態。
いくらアクセルを踏んでも、進みません。
うっかりブレーキを緩めてしまうと、どこに行くかわからない。
ブレーキは、自己防衛本能なんだと思う。
楽しんではいけない。
幸せな気分を味わってはいけない。
目の前にいる人を、楽しませなければならない。
相手を喜ばせて、初めて、ここにいることが許される。
役に立たなければ、見捨てられる。
ありのままの自分は、決して受け入れてもらえない。
自分の意見を言おうものなら、場の雰囲気が崩壊する。
人を好きになってはいけない。
欲望を持ってはいけない。
夢を持ってはいけない。
人から、好かれてはいけない。
過剰な期待を、抱かせてはならない。
どうせすぐに、幻滅されるだけだってことがわかっているから。
毎日、少しずつ、死んでいく。
しかし時たま、もう少しだけ生きようと、もがいている自分がいる。
生きたって、苦痛がほとんどなのに。
人をがっかりさせてばっかりの人生なのに。
少しだけ、いいことがあって、
少しだけ、元気が出て、
少しだけ、微笑んで…
「楽しむ」という行為自体は、「悪い」ことではないのかもしれない。
ただ、人を貶めたり、残虐非道な行為をして楽しむのが悪いんだと思う。
自分の中にも、そういう血が流れていると思うと、悲しくなってしまうけど、
その愚かさに気づいた瞬間から、流れは変わっていくのかもしれない。
それなら、自分なりの、やり方があっていいはず。
俺の血は穢れているけれど、こんな苦悩は、俺の代で終わりにしたい。
娘は今のところ、明るくて社交的な方向に育っています。
俺が死んだら、妻と二人で、強く生きていけるでしょう。
(旧姓に戻れば、俺の父親とは縁が切れるはずだから)
家族というのは、本来、自由に意見が言える関係であって欲しい。
権力を振りかざして、弱い者いじめを公然と行う関係であってはならない。
発言が封印され、好きな道にも進めない、監獄のようにしてはならない。
もっと、俺が、強かったら。
もっと、俺が、しっかりしていたら。
家族の中で一番弱い立場だった俺は、
祖父にも、父親にも、意見を聞いてもらえなかった。
殴り合ってでも、主張すべきだったんだろうか。
怒りに対して怒りで応戦するのは、あまりにも悲しい行為だと思う。
俺はいつも、悔し泣きしかできない、無力な少年だった。
そんな俺が、家庭を持ってよかったんだろうか。
でも、娘が生まれて、希望も生まれて、
3歳くらいまでの間に、もう一生分の親孝行をしてもらって、
この子だけは、自由にのびのびと生きてもらいたい、と思って。
親父の魔の手が、娘に及ばないように、俺がもっともっと、しっかりしなくちゃ。
色んな思いが湧いて、打ち消して、また浮かんで…
ここ1ヶ月くらいの間で、すっかり老け込んでしまったように思う。
体重もたぶん、一段と落ちてしまった。(あばら骨が目立つようになった)
来週は、7日連続勤務の予定。
体がもつかどうかはわからないけど、
家は、安心して休める場所ではなくなったので、
毎日、5時半に起きて、逃げるように、農場に向かう。
疲れています。
でも、体が勝手に動いてしまうのです。
そこに行けば、俺を必要としてくれる人たちがいるから。
まだ、もう少し、やれそうだから。