メンタルコラム その11 「正解」 | 映画熱

メンタルコラム その11 「正解」

心に染み付いたものって、なかなか脱却できないものだと思う。


自分ではそんなつもりはないんだけど、よく「優等生」と言われた。

勉強が得意ではなかったけど、勉強自体は嫌いではなかった。

ポイントを絞ったテスト勉強や、自分なりの勉強方法もそれなりにあった。

だから、テストとか、試験に強かったのかもしれない。


しかしながら、当の真っ只中にいる本人は、極度に緊張していた。

追い立てられるように必死にがんばり、いつも闇の中をもがいていた。


勉強というのは、「評価する誰か」がいて、成り立つものだと思っている。

採点という「権限」を持っている者の気分1つで、どうにでもなってしまう。


だから、常に「採点者」の視線を意識しないと、「不合格」にされちゃう。



「親」は、「子供」に対して、「絶大な権限」を持っている。

気に食わなければ、あっさりと見捨ててしまう。

「教師」は、「教え子」に対して、「絶大な権限」を持っている。

気に食わなければ、あっさりと切り捨ててしまう。

「上司」は、「部下」に対して、「絶大な権限」を持っている。

気に食わなければ、あっさりと廃棄してしまう。


もちろん、そんなに簡単にはできない。

でも、いったんそういう心の回路が起動すると、態度が豹変してしまうのである。


そういう「得体の知れない恐怖」を、ずっと抱えてきたように思う。


それは、少しずつ、ジワジワと、心に浸透して、蓄積されていくものなのである。



幼い頃から、「安心」の中でのびのびと成長できた人には、決してわからない。

周囲から認められて、存在を肯定されて生きて来られた人には、想像できない。


好きで、こうなったんじゃない。

気がついたら、こうなっていたのである。



「失敗」は、「激怒」と「体罰」と「存在の否定」に変わっていく。

「失敗しないこと」が、平穏に生きられる「唯一の手段」だった。



「強者」は「弱者」に対して、常に「全面的な服従」を強いる。

「自分の意見を述べる」ことは、「反逆」を意味する。

「発言権」という「自由」は、、一切与えられなかった。



だから、常に「正解」を探そうとして、必死になってきたのである。




一緒に過ごしていると、「相手」の好む「解答」が、少しずつ見えてくる。

一緒に同じ空間にいると、「相手」が自分に「期待」していることが見えてくる。

一緒に仕事をしていると、「相手」にとっての自分の「役割」が見えてくる。


自分の意思とか、願望とか、感情などは、「無駄な要素」に過ぎない。

全ては、「支配者の気分次第」で、評価などまるで変わってしまうのである。



そういう「正解探し」は、実際、しんどい。

そういう状況に長く置かれれば置かれるほど、心が疲弊してしまう。



今思うと、小学校高学年の段階ですでに、「生きた心」を失いつつあったように思う。

思春期になっても、周囲の友達との間に「違和感」があった。

みんなが同じように持っているものを、自分だけが持っていなかったように感じていた。

そんなみんなに「羨ましさ」を感じることも多かったけれど、

「人は人、自分は自分」と割り切って、自分の境遇を悲観したりはしなかった。



人にはそれぞれ、「担当領域」というものがあると思う。

生き方も生い立ちも境遇も、みんな違うのだし、性格だってバラバラなのだから、

その人に合った「生き方」があっていいと思う。


無理に「普通」に生きなくてもいい。

「変わっている自分」を、卑下したりしなくていい。


俺は、極度の緊張状態に長く置かれていた男なので、

いっぱいいっぱいの人の気持ちが、痛いほどわかる。

表情や仕草に出ない、心の奥底にある悲鳴が、聞こえたりすることがある。


つまり、「気づく力」は、それなりにある。

しかし、それを的確に「行動に移す」ことが、苦手なのである。



「よかれ」と思ってしたことが、余計に「相手」を怒らせる場合がある。

「100回の成功」よりも、「1回の失敗」で、全ては終わりである。


『…全くお前は、ロクなことをしない!』

その「失敗」を、一生言い続けるのが、「支配者」の「最大の武器」である。

当の自分が失敗したことは、全てこちらのせいにされる。

俺を責めることで、自分の過ちを「なかったこと」にしてしまうのである。


俺を責める時の「支配者」は、実に嬉しそうである。

俺を責めることが、まるで「生きがい」のようである。



俺は、「失敗」をすると、「悔しい」と感じる。

だから、同じ「失敗」を繰り返さないように、要領を頭に叩き込む。

しかし、「支配者」は、生身の人間である。

前と同じことを言っても、喜ぶとは限らない。

パターン化した行動は、「バカのひとつ覚え」と批判されてしまう。


つまり、常に「支配者」が「満足」するように、先手を打たねばならない。

俺の頭脳は、そうやっていつもフル回転してきたように思う。



「一方的な関係」は、いずれ破綻する。


「親子」という関係は、「終わりのない拷問」である。

「教育」という関係は、「ダメ出しに怯える空間」である。

「上司と部下」という関係は、「一時的な利害関係」である。


「役に立つ」うちは重宝され、「役に立たなく」なれば、廃棄される運命。

そういう瞬間を、無数に体験してきたし、目の前で見てきた。




「正解」など、どこにも存在しないのかもしれない。

ただ、今はそれが「正しい」こととされているだけなのかもしれない。

次の瞬間には、あっさりと180度変わってしまうことも、よくある。


人間関係にも、同じことが言えると思う。


昨日話した友達と、今目の前にいる友達は、違う心を持っているかもしれない。

「こう言えば喜んだ友達」は、過去のデータに過ぎない。

同じことを言うと、「今日の友達」は怒るかもしれない。

「お約束」や「お決まりのパターン」で続く友情ならば、こんなに苦労はしない。

「いつもと違う」んじゃない。「毎日違う」のである。


そういう気持ちで接すると、友達との「心の交流」が深まっていく。

自分の思い通りにならないから切り捨てていく人には、いい友達がなかなかできない。


人は、「思い通りにならない存在」だからこそ、味わい深いのである。



恋人とうまくいかない人にも、同じようなことが言える。


「こうすれば相手が喜ぶ」と思ってしたことが、裏目に出る。

それは、「相手をパターン化」して考えている自分が生み出した「幻想」である。


自分に置き換えてみればいい。いつも「同じ自分」なのかどうか。

その時によって、気分が「ハイ」な時もあれば、「ロー」の時もある。

「ダウン」している時もあれば、「凪」の時もある。

同じ刺激を受けても、どう反応するかは、その時の「気分」次第。


本来、人には、そういう「自由」があっていいはずなのである。


しかし、「頭のかたい人」には、それが理解できない。

自分が思ったように反応してくれないと、不機嫌になる。

自分が予想した通りに答えてくれないと、恨む。

自分が満足したリアクションをしてくれないと、怒る。



『…せっかくお前のためにしてやったのに、何だその態度は!』


単なる自分の「思い違い」なのに、全部「相手のせい」にしてしまう。

これが、内容もなく「支配者」になりたがる者の「悲しい正体」である。


言われた方は、たまったものではない。

心が健全な人なら、言い合いをしてケンカをしてぶつかって、妥協点を探す。

しかし、心を病んでしまった「優しい人間の心」は、それができないのである。


『…そんなこと、単に○○すればいいじゃん。』

そう簡単に言い放つ人は、人の気持ちをまるで見ていないんだと思う。

それが、その人の持っている「正解」なのだから。

「正解」をぶつけて、相手が認めなければ、「間違っているのは相手」になる。

だから、相手を延々と責め続けることができるのである。


自分の言葉で相手がどんな気持ちになるかなど、全く考えないから、そんなことが言える。

俺は、そういう人が羨ましくてしょうがない、と思うことがある。


しかし、自分は自分。人は人。

俺は、そういう種類の人間になれなかった男なのだから。



「鈍感」であるが故に、人生がうまくいく人がいる。

「敏感」であるが故に、人生を転がり落ちていく人がいる。


だけど、「失った」分だけ、「新たなものを獲得」していることを、忘れてはいけない。

俺は今、そういう風に、自分を「再構築」していっている最中なんです。



人のことは、何とでも言える。

だって、人のことは、「一部分」しか見えないから。


「言葉の重み」は、「その人が生きた重み」である。

「言葉」は、その人「そのもの」を表す、重要な産物なのである。



「軽々しい言葉」を、サラッと言える人。

普段無口で、時々「重い言葉」を吐く人。


「言葉そのもの」と「言い方」で、印象がまるで違うものになる。

それは、「計算」でできることじゃない。

中身のない「ハリボテ」は、すぐに崩壊していくものだから。



「自分の心と向き合う」ことができる人は、

「人の心ともしっかり向き合う」ことができる人である。


自分と向き合えば向き合うほど、自分の嫌な部分がより見えてくる。

心が洗練されてきれいになっていけばいくほど、

どうしても消えない「心のしみ」が気になってくるもの。


それは、自分の力では、どうしようもないものなんだと、最近思うようになった。


「心のしみ」は、「完全に消す」ことはできないけれど、

「限りなく薄めて、目立たなくする」ことはできるんじゃないかって、気づいた。


それをするために有効なのが、「よりよい会話」をすることなんだと思う。



人の心は、いつも「一部分」しか見えない。

人の心を全部知ろうとすることは、不可能である。

自分の心すら見えない者に、相手の心を見ることはできない。

自分の心が「レンズ」や「鏡」となり、それを通して、相手を見るのである。

くもっていたり、歪んでいたりすれば、相手の心がちゃんと見えない。


「自分の感性を磨く」ことができている人は、しっかり見ることができるもの。

ただ、見たくないものまで見えてしまうという「弊害」もあるので、ご注意を。



「いい会話」をしていると、感性が刺激を受けるもの。

俺は、盛り上がる方向に会話するのが好きなので、

初対面の人とでも、飲み屋のカウンターで熱く語る時がある。


相手のことがわからなくても、「いい会話」ができれば、

相手の心の「一部分」が、しっかり見えてくるのである。

相手の顔も名前も、無理に覚えなくていい。

ただ、その人の「雰囲気」と「キャラ」と、「会話の内容」を覚えておけばそれでOK。


縁があれば、またそこで会えたりする。

そういうきっかけで、「友達」になれることも多い。


世間一般では、相手の個人情報をどれだけ知っているかに情熱を注ぐ輩もいるけど、

そういう人との会話は、警察の事情徴収みたいに、質問ばっかり…

聞くことがなくなった時点で、会話が終了。

しかも、大事なことは忘れていることが多くて、同じことを何度も聞いてしまうとか。



俺、そういう細かいことは覚えていられない男なので、最初から聞かない。

ただ、その人がどんな「考え」を持っていて、どんな「心の形」をしていて、

どんな「恋」を経験していて、どんな「夢」を持っているかは、ちゃんと覚えている。


だから、再会した時に、また会話が盛り上がっていく。




俺はずっと、無意識に「正解」を探してしまう自分が、嫌で嫌でしょうがなかった。

しかし、最近になってようやく、それが決して「マイナスな能力」ではなく、

使い方によっては、「よりよい会話」をするための「優れた能力」になる可能性がある。

そういう風に、少しずつ自分を「肯定」していきたいと思えるようになってきた。



「感じたこと」を「そのまま言う」のは、「愚の骨頂」である。


「感じたこと」を、「自分の感性」に照らし合わせて、

「自分の伝えたいこと」を、「相手に伝わるスタイル」で出力するのがいい。

最初は、「軽いジャブ」で、相手の「固い構え」を崩してから、「技」をかける。

相手の「反応」を確かめながら、徐々に深い心の領域に入って行く。


ここで大切なのは、自分の側から「強引に話をまとめようとしない」こと。

自分はあくまでも、相手が考える材料を提供することに徹して、

結論は、相手に出してもらうという「スタイル」を貫くこと。


これが簡単なようで、すごく難しい。



でも俺、こういう「会話スタイル」が、すごく好きなんだと思う。

少なくとも、脅迫されて「正解」を必死で探す「拷問系の会話」よりは、ずっと楽だから。


やっぱり、お互いにいい感じでリラックスできる状態が、一番いいんだと思う。

そういう「話を聞く体制」を構築していくのが、「よりよい会話」の肝なのである。




自分がずっと短所だと思ってきたことは、もしかして、「優れた能力」なのかもしれない。

そう思うだけで、背負ってきた荷物が、少し軽くなる気がする。


人にとっては「何でもないこと」が、自分にとっては「重要」だったりする。

人にとっては「重要なこと」が、自分にとっては「何でもないこと」だったりする。



自分に対しての「視点」を変えていくのには、勇気がいる。

「既成概念」「固定概念」という「鎧」を外していく行為でもあるから。

眠っていた「本来の精神回路」を「再起動」することは、至難の業である。


だから、ひとりではできないのかもしれない。

信頼できる相手がいてくれてこそ、その「面倒くさい作業」が始められるのかも。


「よりよい会話」は、「凍りついた心」を、

ゆっくりとゆっくりと、少しずつ少しずつ溶かしていく作用もあるように思う。




真っ先に浮かんだ「正解」は、単なる「模範解答」でしかない。

反射的に浮かんだ言葉をどんどん相手にぶつけていくのが「会話」ではない。

自分の中で「いい状態」になるまで「熟成」していくのもまた、いいものである。



心の中で、何かが変わっていくためには、それなりの「時間」が必要なのだから。



俺は、47年生きてきたけど、まだ人生というものが何もわかっていないような気がする。

かといって、今までの「多くの失敗」が、全て無駄だとは思わない。

それぞれの出来事が、きっと、何か「大きな意味」を持つ時が、必ず来る。



桑畑四十郎は、いつも悩んでばっかりの、おっさんである。

時々こうして、心の中を整理しないと、先に進めない男。


今日明日は、連休だけど、疲労が激しいので、地味に大人しく過ごそうと思う。

心がスッキリしてきたら、また映画館に行くつもり。

心が淀んだ状態では、いいものを吸収できないと思うから…



「入力」が必要な時があれば、「出力」が必要な時もある。

少しずつ吐き出して、「余計な荷物」を減らしていきたい。