戦前(1928)の銀座を復元する。その4 銀座二丁目・銀座三丁目・銀座四丁目(東側) | トトやんのすべて

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および諸芸術作品への偉そうな評論をつづっていくブログです。

その4です。

アサヒグラフ・昭和3年5月9日號掲載のパノラマ写真を

手持ちの資料で解読しようとしています。

(図書館へ行ったりするのはめんどくさいので(笑))

 

写真で見る限り、今回取り上げる界隈――三丁目・松屋付近――が、

昭和3年当時もっとも賑わっていたような印象です。

 

写真⑫銀座四丁目・銀座三丁目

 

番号をふります。

 

67……〇田屋

しょっぱなからビッグネーム。TAYA と写真から読み取れます。

たとえ読み取れなかったとしても、「銀座細見」によれば――

 

大正10年→田屋洋品店

大正14年→洋品舗田屋支店

昭和5年→田屋

と、震災前からこの地に君臨していたことがわかります。

というか、今の店も同じ場所?

 

個人的には、小津安二郎との関わりが興味深いところ。

 

この頃(トマス注:昭和12年(1937))、中西文吾との交友がある。荒田正男の紹介であった。新宿に仏蘭西屋という舶来ゼイタク服飾品を出しているハイカラな地主の息子で、スポーツマンでプレイボーイでインテリで、小津の遊び友達になる資格があった。後の銀座の田屋の店主である。

ゴルフ・赤坂・十二社などの遊びに誘われた。

(蛮友社「小津安二郎 ―人と仕事―」501ページより)

赤坂・十二社(じゅうにそう、と入力しても変換できない。新宿の地名なのに)

というから、藝者さんでしょう。

小田原の芸者さんが恋人だというのに、ヒドイ人だ。

 

……しかし、「後の銀座の田屋の店主である」というから、

中西さんはあとあと田屋のオーナーになったということなのかな。

安藤更生の「銀座細見」をみても 今和次郎の「新版大東京案内」をみても、

「田屋」という名前は出てこないので……昭和四年、五年の頃は

注目すべき店ではなかったのかもしれない。

中西文吾がオーナーになって流行り出したのかな??

たぶんネット情報でなにか分かりそうな気もしますが、今は調べないでおきます。

 

68……×不明(ゑり久? 丸見屋?)

69……×不明(長栄堂時計店? ゑり久?)

 

ふたつとも、よくわかりません。

「銀座細見」の記述が間違っているのか?

どちらかは「ゑり久」なのか?

 

70……〇金太郎玩具店(キンタロウオモチヤ店)

このお店もビッグネーム、らしい。銀座関係の本で何度かお目にかかったことがある。

ネット情報だと1993年までお店があったらしいです。

 

 おれもあとで帽子を買おう、俊夫はそう思って、はじめて商店の方に目をやった。そこは、オモチャ屋のキンタロウだった。見ると、ショーウィンドーの中に、浅草紙にのったウンコの模型がうやうやしく飾ってある。俊夫は思わず、うなってしまった。はじめて知り合いに、めぐり会えたのである。

(集英社文庫、広瀬正著「マイナス・ゼロ」190ページより)

 

タイムスリップ小説なので、リアルタイムの作者によるリアルタイムの描写ではありませんが、

昭和7年(1932)の銀座の描写です。

この記述によると、戦前も戦後もウンコの模型があったらしいです。

キンタロウーウンコの模型、この組み合わせは「マイナス・ゼロ」以外でもどこかで読んだのですが、

なにで読んだかわすれました。

(なんとなく遠藤狐狸庵先生の本だったような気がするんだが・・忘れた)

しかし……一体どんなものだったのか?

アラレちゃんに出てくるような、アレなのか??

それとも浅草の巨大なアレ??

 

71……〇山口銀行銀座支店

石造の、いかにも銀行という建物。

「銀座細見」の記述によれば、

大正10年→山口銀行(建築中)

大正14年→株式会社山口銀行銀座支店

昭和5年→山口銀行支店

ということで、確定です。

 

⑫の写真を切り取ったもの↑↓

 

銀座のまん真ん中――松屋の目の前に、なんと馬がいます。

が、当時は当たり前の光景でしょう。

 

写真⑬銀座三丁目

 

番号をふります。

といったところで、2つしかありませんが。

 

72……〇松屋

巨大ビルヂングです。説明不要でしょう。

73……〇伊東屋

これまたビッグネーム。

というか、今回は田屋といい、伊東屋といい、現存の店が多いな。

松屋はもちろんですが。

 

まずは「銀座 歴史散歩地図」を引用。

 

銀座通り東側に、デーンと巨大ビルが建つ。明治三十五年地図では、天狗煙草の「岩谷商会」があったところ。

(中略)

栄華を誇った岩谷商会が衰退していったのは、明治三十七年(一九〇四)に政府が煙草の専売権を握ったためという。店舗は政府が買い上げ、官有地となりビルが建てられた。この巨大ビル、関東大震災でもびくともせず、震災後に松屋百貨店となる。

(草思社「銀座 歴史散歩地図 明治・大正・昭和」46ページより)

 

だそうで、松屋の建物は元々国が建てたものらしい。

しかし「びくともせず」とはすごい。帝国ホテルが被害がなかったことは有名だが、

松屋(銀座ビルヂング)もそうだったのか。

 

「銀座細見」は、松屋に対してそっけない。

伊東屋は東京第一の文房具店である。最近壮麗無比な建築をして、大いにデパートに対抗している。

隣りは松屋呉服店、銀座のデパートではこの店が一番お客が多く、また品物が豊富らしい。建物も一番金がかかっている。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」219ページより)

僕はこんな俗っぽいところには行きませんよ、といった口ぶりです(笑)

 

「新版大東京案内」は、

松屋も震災後に開業、三越の新館が落成するまでの繁昌ぶりはすさまじかつた。その横手前の露地は俗称銀座新道、オキナ、花柳など種々のうまいものやが雑然として一廓をなしてゐる。左角はラヂオの林、つぎに、さへぐさ、この店頭にはいつもナツシユかパカードかが一二台とまつてゐるが中はひつそりしてゐる。飛びきり上等ぜいたくな装身具に御用のあるお方はお立ち寄り下さい。同じく装身具の玉屋と、シヤツの大和屋などを経て文房具の伊東屋、大抵の品ここへ来ればまづ間に合わぬものなし。

(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内」200ページより) 

 

ちとわかりにくいんですが、「さへぐさ」(三枝)「玉屋」「大和屋」と、銀座三丁目西側のことを書いています。

どうも、伊東屋は銀座三丁目西側にも東側にもあったらしいです。

「銀座細見」のリストをあらためて確認すると、その通りになっています。

 

以下、参考のため、

師岡宏次という人の「写真集 銀座残像」の写真をご紹介します。

この本。「銀座残像」というから戦前の銀座のあちこちが載ってるとおもって期待したのですが、

この人、松屋・伊東屋のあたりばかり撮っています。

写真も下手くそだし、がっかり。

まあ、しかし参考にはなるので載せます。

 

三丁目東側の安全地帯。背景は篠原靴店、伊東屋、松屋。(昭和12年)

(日本カメラ社、師岡宏次編著「写真集 銀座残像」79ページより)

ちょうど、電車(路面電車)の電停があったわけですね。

電停の様子、広告、それからお姉さんのファッションなど興味深いんですが……

 

……典型的な日の丸構図がすべてをぶち壊している気が↓↓

お姉さんは右端に寄せて撮れば、いい写真が撮れたとおもうのだが……

この師岡宏次という人、全部そんな残念な写真です……

 

人々がみんな帽子をかぶってゐるというのは興味深い。

お姉さんは手袋をしてゐる……かな。

皆が皆、きちんとしてゐる。

 

 

この頃の伊東屋は、まだ松屋の隣にあった。右は松屋。(昭和12年)

(同書80ページより)

これもまあ、臨場感あるといやあるけど、・・・みたいな写真↓↓

ただ、建物のディテールは興味深い。

昭和の時代になるとこういうビルヂングが……おそらく世界のどこに出しても恥ずかしくないレベルの建築が生れ出したということでしょうねえ。

昭和12年の千疋屋たまらなく行きてえ。

 

 

日中戦争の戦勝を祝った日と、国防婦人会のパレード(昭和13年)

(同書107ページより)

 

上から見下ろすのが好きなんですよね、この師岡宏次先生。

しかし、そういうスペクタクルな描写は新聞社とかにまかせて

アマチュアらしい視点を目指してほしかった気がした。

 

もとい、

写真⑭銀座二丁目・銀座三丁目

 

番号を振ります。

 

この界隈は店名が特定できるお店が多いです。

といって、「銀座細見」「新版大東京案内」で特にくわしく説明されている店もあまりありません。

ビッグネームは特になし、ということか。

 

74……〇篠原靴店

75……〇スズコー婦人子供洋装店

76……〇明菓売店(明治製菓)

これはつまり、前回の記事の主役、

チョコレート・ガール=水久保澄子が働く、いわゆるキャンデーストアなるものでしょうか?

 

この明治製菓なんですが……師岡宏次先生の「想い出の銀座」98ページを見ますと――

 

昭和14年当時は 白いモダンなビルヂングに生まれ変わっていることがわかります。

(赤丸で囲んだビル。なんか懐かしい……とおもったら

アントニン・レーモンド先生の、伊勢佐木町の不二家に似てるんだな)

 

切り取ってみるとこんな感じ↓↓

ちとわかりづらいが、お手本みたいなモダニズム建築。

 

……というと、このビルが「淑女は何を忘れたか」の

佐野周二&桑野通子のおデートシーンの舞台か?

 

一九三七年二月十五日(月)

銀座明菓にてクランク

帰つて下宿

桑野具合悪き由 封切日の近ければ案ず

*大阪の姪の病みおる白き梅

(フィルムアート社、田中眞澄編纂「全日記小津安二郎」204ページより)

と、書かれている「銀座明菓」はこのビルか?

すくなくとも窓の構造はよく似ている。

 

佐野周二の向こう側……窓の向こう側の建物はなんだろう?

位置的に十字屋とか? わからないけど。

 

桑野ミッチー きれいな手してるな。

 

となると、桑野ミッチーの背後に写りこんでいるのは……

位置的に服部の時計塔になるのかな??

 

今だったら、銀座で映画のロケ撮影なんて大騒ぎになりそうだが、

この頃はどうだったのか。

 

とにかく、かわええ……

 

もとい……昭和3年に戻ります。

以下二つ、確定。

どんな店かはよくわからず。

 

77……〇松島眼鏡店

78……〇大黒屋玩具店

 

79……×不明

よくわからず。

店名が読めそうで読めない……

「銀座細見」によると――この場所は、

・大正10年→岩谷呉服店

・大正14年→岩谷煙草店

・昭和5年→カフエ・ナナ

という変遷。

「岩谷」……というと、上記、「松屋」のところで名前が登場しました

「岩谷商会」の成れの果てか??

そのあたりはよくわかりませんが……

昭和2年のこの建物は「岩谷煙草店」なのか??

カフエ・ナナは、「銀座細見」には店名が登場するだけでどんな店かよくわからない。

 

80……〇アオキ(アヲキ?)

靴鞄……革製品を扱っていたようです。

「新版大東京案内」で店名が登場しますが、とくにくわしい説明はなし。

いかにも急造のバラック建築という感じ↓↓

しかしデザインは素人の仕事ではない印象。クラシック建築の素養がありそうです。

おもしろい建築(しかし、すぐ本建築に建て替えるのでしょう)

 

写真⑮銀座二丁目

 

番号を振ります。

この界隈は当時の有名店が……

カフエ・キリン カフエ・クロネコなどが並んでます。

建築好きは、もろに「ライト風」「帝國ホテル風」の86番に目を引かれるでしょう。

これが高名なカフエ・クロネコ、らしい。

 

81……〇川崎貯蓄銀行所有地

写真からそう読み取れますので確定。

当時のアサヒグラフ、裏表紙が川崎貯蓄銀行の広告、ということがたまにあります。

景気がよかったのか?

「川崎貯蓄銀行」でググると 大阪市中央区の「旧川崎貯蓄銀行大阪支店」というのが出てくる。

まあ、手広くやってたんでしょう。

「銀座細見」のリストによると――

・大正10年→菊屋食料品店

・大正14年→菊屋食料品店跡

・昭和5年→三共薬局

となっています。

 

82……〇菊秀金物店

83……〇カフエ・キリン

 

 キリンはキリンビールの本舗明治屋の経風のドイツゴシック風のいかにもビヤホールらしい気持のいい建物だ。設計はたしか古宇田実氏だったと思う。ただし夏はヴァンテイラションが悪くて暑苦しい。

 女給は黒地のキモノに鴇色(ときいろ)の襟、海老茶前垂のユニフォームだ。開店当時は「給仕人への御心付は一切御断り申上候」などと書いてあったが、二、三日ですぐ外してしまった。

 女給は割合におとなしい様子だ。派手な他のカフエに対して、老舗らしいサービス振りで気持がいい。銀座のカフエの飾窓ではここが一番大きいだろう。

(中公文庫、安藤更生著「銀座細見」103ページより)

というのが安藤更生先生の解説。

 

古宇田実、という人は、大学で建築史をけっこうがんばったトマス・ピンコも知らない人なので

マイナーな建築家といってよろしい(笑)

ググってみると、「作品」として「カフエ・プランタン」が出てくるので、安藤先生の情報は合っているのか?

それより気になったのは、あの渡辺仁……

ホテルニューグランド、服部時計店、そしてトーハクの作者、渡辺仁の妹と結婚したらしい。

つまり親戚らしいということです。

 

安藤先生、「ドイツゴシック」というが、外観はまったくその様子はない。内装がそうだったのか?

(下に載せました、例の師岡宏次先生の昭和13年の写真も同じ建築が写っているので、建て替えたりはしていないとおもう)

「ヴァンテイラシヨン」などと気取っていってますが、ようは換気がよくなかったらしいです。

 

84……〇酒井硝子鏡店

85……〇不明

酒井硝子鏡店とカフエ・クロネコに挟まれた店ですが……

なにかごちゃごちゃ書いてあって

正直不気味です。

「銀座細見」によると――

・大正10年→生秀館美術品店

・大正14年→美術店生秀館

・昭和5年→オリンピック(レストラン)

となっています。

 

86……〇カフエ・クロネコ

 

「銀座細見」の安藤先生は カフエ・クロネコは二流三流だと斬って捨てていて

とくに何とも書いていない。

巻末のリストによると、昭和5年12月の段階で「カフエ・クロネコ跡」となっていて

はやくも潰れてしまっていることがわかります。

 

「新版大東京案内」では――

 

タイガーと同時に一躍天下に知られたクロネコは、警視庁に干渉されたり圧迫されたりしたが、近頃、巨船そつくりの建物をつくり、店内を三つに仕切り、向つて左より、船ノフネ、レストラン・クー、イナイイナイバアと名づけて開業した。クーとバアとの間がトンネルになつてゐて、くさやの干物に灘の生一本を売りものにする加六に通じる、その対照、すこぶる妙である。

(ちくま学芸文庫、今和次郎編纂「新版大東京案内」200-201ページより)

と、昭和4年段階では張切っていたんですがね。

 

で、「カフエ・クロネコ跡」はどうなったか、というと、

「銀座 歴史散歩地図」によると、大阪資本の バー「赤玉」とやらいう店になったようです。

 

87……〇川崎(貯蓄?)銀行京橋支店改築場

 

なぜ「銀座支店」ではなく「京橋支店」なのかというと、

このあたりが「京橋区」(当時の表記では京橋區)だったから、だとおもいます。

 

しかし、この土地……

「銀座 歴史散歩地図」によると、昭和5年11月

銀座会館という大阪資本の大カフエが建つようです。

 

はい。最後にこのあたりを撮った師岡宏次先生の写真の紹介。

「写真家」というレベルの写真ではないですが、

とてもわかりやすいので載せます。

(とにかく、何かイベントがあると、ビルの屋上に登って撮りたがるらしいのだ、この人は)

 

昔の銀座二丁目東側

昭和13年に鐘紡ビル屋上から撮影。カフェーキリン、オリンピックなどが見える。大部分が木造二階建である。

(講談社「師岡宏次写真集 想い出の銀座」51ページより)

 

昭和13年当時、

・カフエ・キリンの建物は昭和3年と変っていない。

・84、85の建物が消えて、まとめて「オリンピック」になっている。

というのがわかります。

 

その5につづく。

その5で銀座の復元は終わります。