今日、懲りずに再び、西日本総合展示場の夢を見た。だが、今回はちょっと毛色が違う。その準備段階の夢だ。マネージャーは俺と同い年の松田。課員には榎並、あと何人か、名前が思い出せない女子社員というか、特別出演の初顔?

 

 会社はこういう一気に台数を上げるイベントを大型商談会と呼んでいた。こういうイベントを行う前は、新型車が出たとき、展示会という形で、各店舗でやっていた。それが、黒崎のプリンスホテルのイベント広場(もう無くなってしまった)や小倉駅前イベント広場、西日本総合展示場を使って、新型車を展示するようになった。当然、新型車だけ置いておく訳にはいかないので、説明要員として、セールスマンが数人派遣されることになるのだが、別に販売のノルマがある訳ではなく、気楽だった。

 

 俺も何回か派遣されたが、そのときは西日本展示場だった。当時俺が懸想していた名倉も一緒だったので、楽しいお喋りに興じながら、試供品のアサヒスーパードライをかっ食らった。ほんと、楽しい思い出だ。それが数年後、地獄商談会と化すとは、夢想だに出来なかった。

 

 このアメブロのどこかに書いたとは思うが、大型商談会の嚆矢は、新門司の阪九フェリー商談会だ。この話、うろ覚えではあるが、まだ俺が30歳前後のとき、一緒に働いていたトヨタから転職してきた柿の木さんが持って来たらしい。

 阪九フェリーは早朝、新門司の岸壁に接岸されて、夕方5時頃出港する。その間に、広い車両甲板に新車を展示して販売する。商談会は17時まで続けるため、フェリーが出港準備に入る15時には、一旦展示車を下ろして、今度は阪九フェリーのターミナル前の広場に並べて続ける。

 この頃、まだMBはRVが絶好調で、そうガツガツしてなく、明確なノルマも課されてなく、土日二日間に対する呼び込み活動とかもそう厳しくなかった。この頃の俺のマネージャーは松本課長。


 1995年11月の阪九フェリー商談会、松本課長の助けもあって、4月に結婚したばかりの俺は、土日二日間で11台数販売した。この11台の中、軽自動車はたった1台で、残りは全部高額の小型四輪車と普通四輪車だ。特に台数が多かったのは、300万円超の二代目パジェロだ。あと、初代FTOと初代RVR。

 

 それが、MBが業界でどんどんジリ貧となっていくにつれて、セールスマンに課されるノルマ、呼び込み活動が厳しくなっていく。いつの間にか、阪九フェリー大型商談会は西日本総合展示場商談会と形を変えていった。


 この頃の北九州支店母店営業部には五課あった。直売部(個別訪問して車を販売していく。通称・訪販)が販売一課と販売二課、業者に販売する系販部、会社関係に特別価格で販売する特販部、店頭販売課だ。

 それと、行橋店、曽根店、門司店、徳力店、中井店、八幡東店、桃園店、本城店、上津役店、則松店の十店で、セールスマンは50人前後か。

 西日本総合展示場商談会は、一年に、3月、7月、9月、12月の四回行われていた。この年四回は、もう会社が西日本総合展示場商談会に慣れてきた頃で、これ以前は、6月と11月も開催して、年六回も行われていたが、メーカーから補助金が出なくなって、年四回に落ち着いた。


 開催時間は午前中の9時には集まって全員で展示車を拭き上げて、いろんな準備をやって、終業時間は19時。その間は勿論、立ちっ放しだ。呼び込んだ客が来場してくれたときだけ、一緒に商談テーブルにつける。

 義足の俺には非常に辛い商談会だった。調子が良い頃は、お客がどんどん来てくれて、座ったり立ったりしながらも時間はあっと言う間に過ぎてくれたが、ジリ貧になった五十路の頃の俺には、やって来てくれる客は、一日に一組か二組という体たらくだった。

 時間が全く過ぎない。お客も来ない。足も痛い。なら隠れるところは一つ、トイレだ。トイレに居るときに限ってマネージャーから携帯に電話が入る、「今どこに居るんですか?今日の今後の予定を聞かせて下さい」とか。

 

 西日本総合展示場の実績は、第一は販売台数だが、それ以外にも追求される項目がある。呼び込み客数、試乗件数、査定件数だ。さすがに、商談会二日間で来場客が0、はなかったが、試乗0・査定0・販売0のトリプル0だけは救いようがない。会場のコンクリート床に穴を掘って隠れるしかない、針の筵だ。


 この商談会に掛かる費用、二日間で300万以上だと会社は声高に喧伝する。

「会社がこんだけバックアップしてやっとんのに売れんとかおかしゅうねぇか?」と言うのが、支店長他、上層部の常套文句だ。まぁ売らんでいい立場の奴らは気楽でいい。販売当事者ではないから。リタイヤした今、しみじみ思う。西展で一度はこういう身分になってみたかった。


 土日が西展だとすると、その週の月曜日からは西展ウィークだ。5台の目標を達成するための準備は会社によってマニュアル化されている。まずは、一週前の土日は、ダイレクトメールの作成作業だ。管理顧客全員に西展のチラシ入り封筒を郵送する。それが届いた火曜日辺りから一斉電話コールで呼び込みと売り込みだ。受注出来た客、平日には上げずにとっておき、土日に決まったように申告する。だから、セールスマンの腹の探り合いは土曜日だ、「何台持って来た?」と。


 今回の俺の夢に出てきたのは、この西展案内チラシを封筒に入れて送付する作業だ。ほとんどのセールスマンの管理者顧客のメインは既納客だが、それにまだ自分では売ってない引き継ぎ客が加わって、平均500件くらいになる。宛名はパソコンで打ち出してプリンターで印刷する。それを一件一件、ダブらないように注意(一家族に数台売っていると宛名が複数出てくる。間違って二通出してしまったりしたらばつが悪いので、世帯主の名前で出す)ながら、封筒に貼り付けていく。その後、チラシを封筒に入る大きさを折る。これが中々の重労働だ。そして、封筒の糊付け作業のあと、郵便番号毎に纏めて、各束の数を数える。

 土日は通常、店内待機して呼び込んだ客の相手をする。合間を見ながらの作業だから、土曜日いっぱい掛かって、日曜日の夕方には絶対に終わらさねば、他の奴らに迷惑が掛かる。纏めて出して郵送経費を抑えるから遅れることは許されない。


 このことに関して、俺には強烈に嫌な記憶が脳裏に焼き付けられている。二つ上の俺を飛び越えてマネージャーになった重松だが、彼がまだ同じ課でセールスマンをしていたときのことだ。マネージャーは後に支店長になった伊古野。

 その日、俺は何かがあって帰社が遅れてしまった。二階の営業部に上がると、もう既に、段ボール箱に封筒が郵便番号毎に詰められて、壁際にずらっと並べられていた。

『しまったぁ!遅かったぁ!』

 とことこと俺の元に近付いて来た重松、俺を見下した如く、「郵便局が取りに来る時間に間に合いそうもなかったんで、YMRさんの残りの作業、二課の者がやってくれたんですよ。お礼言っといて下さい。じゃないと一課が恥を掻きますから」

 この言葉、正直、俺の胸を深く抉った。この一言で、俺は重松を見る目が大きく変わってしまったから。

 このこと、同じ釜の飯を食う同一課員の、偶々の過失ではなのか。だったら、他の課に人身御供に出す感じではなく、一応俺は年上なんだから、笑いながら冗談気味にでも、「YMRさんの残り俺がやっときましたんでコーヒー奢って下さい」とかでいいのではないか?

 だったら、俺は気を悪くすることなく、「分かった奢るわ。今度重松が作業遅れたときは俺が代わりにやってやるわ」となるのに。


 夢の中、俺は西展準備に追われていた。順調に熟していたつもりだったのだが、何故か途中、作業が止まってしまった。ここは、北九州支店ではなく、八幡東店のようだ。机に戻る。

 箱には俺が折ったチラシしか残ってない。課員に訊くと、俺のを残してもう郵便局に出してしまったという。

『えっ!なんで俺はだけ除け者?』

ここで俺は夢の記憶を辿る。

『何じゃ、俺もうこの会社名辞めとるやねぇか。お情けで出勤してやっとるだけやったわ。やけん管理顧客は0やったわ。俺にとっては西展示会なんてとうても良かったんやねぇか』