前述したが、俺は35で結婚した。社会人になって、20代30代と、結婚するまでの俺は結婚式コンプレックスだった。というか、完全に天の邪鬼と化していた。頭が狂っていた。

 

 この年代といえば、結婚式ラッシュだ。当然、俺の元に結婚式の招待状が届いて、出席欠席の取捨選択に苦悩することとなる。こんな身体とビジュアルではどうせ結婚なんて出来ないし、生涯独身だと人生を完全に投げて、諦めていた俺には、結婚式をバックレた相手とのその後の付き合いなんてどうでもよかった。

 往復ハガキの返信がなかったら自動的に欠席になるんじゃないかと思い込んでいた俺は、招待状に出席欠席の印を付けて返送することもなかったから、招待元は当然出席するものと席が取ってある。

 おめでたい結婚式場にポツンと空席が出来る。周囲の招待客は、「ここは誰の席?」と訝ることとなる。こんな失礼極まりないこと、平気でやってしまっていたこと、今となっては信じられない。本当に、今では常識人?だと信じている、俺のやった行為なのかと。

 

 こんな俺ではあったが、招待された結婚式の半分はちゃんと出席した。結婚が一番早かったのは、大学の友人の家永か?神埼高校出身の彼は、俺と同じ、西南大学の国際文化学部の同級生だ。卒業して半年ほど勉強し、福岡県警の採用試験を受けて合格した。詳しくは、俺の小説「二十歳の紀子」に書いている。

 確か結婚相手は、上司の娘さんだったと思う。家永とは結婚式以来会ってないし、一緒に出席した大学の友人とも顔を合わせる機会など全くないから、その後の彼の情報なんて何も流れてこない。大学の同窓会など企画する奴なんか居ないから、そこで会う可能性も0だ。そんな付き合いの薄い家永の結婚式ほどバックレても何の後腐れもないのになぜ出たのか、そのときの俺の心情、分からない。

 

 これこらの付き合いを考えると、バックレることなど夢想だに出来なかったのが西南大学空手部同期、塩田・平井・神澤の三人の結婚式だ。結婚式の会場は塩田が熊本、平井が久留米、神澤が福岡だったと思う。

 この頃のご祝儀はもう2万を超えていたと記憶しているが、俺は一律、1万円しか包まなかった。意識してではなく、1万円が相場だと思い込んでいた節ごある。

 三人の結婚式、一応は出席したが、別にその意趣返しのつもりは全然なかったが、俺の結婚式には招待しなかった。情報も流さなかったと思うのだが。いや、この頃、思い出したように、神澤からはときどき電話が掛かってきていたが、そのとき俺、結婚したことを報告したのかも。神澤、奥さんとわざわざ、3万円のご祝儀を包んで訪ねて来てくれた。

 

 頭が狂っていようが、救いようがないほどの天の邪鬼だったとしても、そんなこと全く関係なく、もし招待されなかったら拝み込んででも、ほんと心から、どうしても祝福したかったのが、西南大学空手部の2年上の、島田先輩の結婚式だ。

 この頃先輩の勤務地は四国の松山だったと思うが、結婚式は実家のある延岡で行われた。奥さんは何と、先輩の同級生の妹さんだ。結婚式の最中、俺自身、まさか!と信じられなかったが、涙が流れてきてびっくりだ。ふと横を見たら、先輩の同期の菅島先輩も目を真っ赤にしていた。

 

 島田先輩、すらっとして、身長は185を超えていたが、顔がゴツかった。正直、俺からみても結婚は苦労しそうだったが、顔に似ず、めっちゃ優しいその性格の良さは俺の折り紙付き?だ。空手部ではずっとレギュラーを張って試合に出ていた。試合に出る可能性0の俺とは違うって、義足で試合になんか出たら、悪い左足、ローキックで折られてしまう。弱点を攻撃すること、別に反則ではないから。

 

 俺が一年、先輩が三年のとき、鮮烈に脳裏に焼き付いている光景は、あれば福岡地区新人戦い?だったかな、俺ら一年は声を枯らして応援した。

「島田先輩!ファイトです」と。

 福教大の二年、内との壮絶な決勝戦。確か先輩、残念ながら負けたような覚えが?

 

 先輩が新卒で就職したのは、有機材を生産する会社で、数年、北九州で勤務した。二年後、俺は小倉の豊前屋に新卒で就職し、当然、先輩とは、北九州の西南大学空手部OB会も通して、親しく付き合った。

 先輩のアパートに入り浸って感心したこと。先輩、一人住まいの家事を完璧にこなしていた。部屋は綺麗に掃除され、日常使うタオル、ちゃんと洗濯機で洗われていてふわふわなのだ。

 対する俺、アパートに洗濯機なんて高尚なものはない。タオル、使い捨てしてたのではなかったか?台所や洗面所の水道水ででも洗った覚え?全く無い。風呂は、当時の俺のアパートにはなく、敷地内に共同の風呂小屋があった。

 

 洗濯物は、あの頃、コインランドリーあったかいな?掃除?やったことなどない。長崎県の猪町に住む両親、頼みもしないのに、小倉まて車でやって来て掃除して、ゴミと溜め込んだ洗濯物を車に積んで持って帰った。洗濯物は近くにいる伯父の家に郵送して、電話があったら、俺が取りに行っていた。

 

 豊前屋からMBに転職してからは、1987年に出た新車のミラージュ・マリオンPを買って貰った。俺は結婚など完全に諦めていたが、先輩には身体的欠点など何もないのだから、30過ぎてからは当然、精力的に婚活に乗り出した。

 まぁ大学在学中は先輩後輩の関係から直言など出来る筈もなかったが、社会人となってからは、俺は先輩に、歯に衣着せない喋り方をしていた。

 

 2023年11月5日