この時代、信号が圧倒的に少ない。だから、エアコン無しの車でも走行風で何とか耐えられる。宗像の雑貨屋でコカ・コーラとファンタを買って美穂ちゃんが両手で持ってくれている。
「はいおじさん」
「おうサンキュー」
 10日前のネズミ取り地点に差し掛かって、「伯父さん、この前の取り締まりに関わった警官の人たちを脅したって言うとったやろ、あれからどうなったん?」
「あっそうやった。この二日間愉し過ぎて美穂ちゃんに喋るんすっかり忘れとったわ」
「やっぱり何かあったんやね」
「ああ、A界の展示会の最中に爺さんがあいつらのこと教えてくれた」
「えっ、仙人様!伯父さんの世界にも行けるの?」
「俺が持っとる携帯のモニターにだけA界でも姿現すことが出来るごたるんや。爺さんな俺に本当に申し訳なさそうに言うんじゃ。爺はA界では何の力も持ちません。やから、ご主人の苦境をお救いすることが出来ませんっちよ」
「苦境って、おじさん展示会苦しかったん?」
「美穂ちゃんの察しの通りじゃ。俺は土日の二日間の展示会参加者の中で営業経験が一番長い課長なんに0やったんや」
「展示会のノルマは何台だったん?」
 俺は軽く、「5台」
「ご、5台!?」
 美穂ちゃんが目を丸くして驚嘆の声をあげる。
「たった二日間であんな高価なものが5台も売れるもんなん?」
「10年前俺がばりばりの頃はさも当然の如く売りよったけん、あながち不可能な数字やない」

 車が遠賀川橋に差し掛かった。小倉に近づくに連れて気が重くなるのを否めない。0のA級戦犯がどの面下げて明日、会社に行く。ただ、俺は愛する者が居るA界に背を向けることは出来ない。この気持ち味わったことがある。
 A界の昭和57年10 月1日、紀子との阿蘇デートのときだ。明日の経理への出勤が生理的に嫌で嫌で堪らなかった俺は、このまま紀との逃避行でも図りたい気持ちだった。
「会社行きとうねぇな」と本音を漏らした俺に、「B界で怖い者無しのおじさんが弱音なんて似合わんよ」
 俺は小鼻を膨らませて、「A界じゃ只の人以下の俺やで。鬱病一歩出前や」
「鬱病ってあの躁鬱病のこと」
「ああ、40年後は鬱病が社会問題になるんや。俺が10日前に美穂ちゃんに喋った若年性アルツハイマー病のごとね」
「実際俺の会社でも4人鬱病になって長期に会社休んで1人は心不全で亡くなった。まだ40代初めの女子社員やったばって」
「鬱病の症状ってよく分からんのやけど命に関わる病気なん?」
「そやな、鬱の奴への禁句は『頑張って』やな。頭抱えて踞ってしまうか自殺に走ってしまう。そいで料理で包丁が使えん。一歩が踏み出せん。会社に行こうち家ば出てもどうしても行けんで戻って来てしまう。でさっきの俺の会社の同僚のごつ心臓に負担が掛かって命まで失うことがある」
「そうなんや。恐ろしい病気なんやね」

「ところで私の質問からだいぶ逸れてしまっとるんやけど…」
 あっちゃ〜と頭を掻いて、「そやった、あいつらのことやったな。美穂ちゃんが爺さんのこと訊くけん」
「昨日折尾署に寄ってあいつらに会うてきたんや。俺ば見た途端、水戸黄門のごと、はは〜湯村様げな。ちょっと誇張はあるけど」と、はにかむ。
「おじさん鼻高々やったやろ?」
 俺は鼻を擦って、「まぁ」
「美穂ちゃんも最初は俺の力ば目の当たりにするまで信じられんやったごつ、あいつらも翌日周りから俺の記憶と記録が消えるまで信じんやったわ。当たり前のことやけどな。あんとき一番偉そうにしとった警部補な、俺の言葉ば真に受けてご丁寧に職場に電話して俺のスピード違反ばチクりやがった」
「怒った俺にホントに消されるんやないかってビビり上がっとったわ」
「ほいで思いついた」
「何を?」
「あいつらをB界のエージェントにしようちよ」
 美穂ちゃんはきょとんとして、「エージェント?!」
「そう、あの7人ば警察機構の重要ポストにつけて俺の指令が届くようにする」
「このB界でも未解決事件多いやろ」
「うん。例えば3億円事件とか…」
「そうか、B界でもあったんか」と呟いた俺は、「ちゃんと確たる証拠も上げて解決するんは簡単やけど」と俺は言葉を切って、「この事件って美穂ちゃんは是が非でも解決して貰いたい事件なん?」
「う〜ん、私としては、あの3億円事件はあまりにも手口が鮮やかで死傷者も皆無で、謎は謎のままでロマンを掻き立てる方がいいのかなって思っちゃう」
「それより、非道な殺人犯に逃げ得は絶対に許さず法の裁きを受けさせて欲しいよ」
「そうやな」
「美穂ちゃん、今は時効は15年やけど、数十年後に殺人事件に限って時効が無くなる。やから一生逃げ回らないかんごとなる」
「人を殺したんやから当然よね。でも伯父さんの力で早く解決して」
「まぁ俺の力をもってすれば簡単なんやけど、一応A界と合わせとかな色々面倒なことになりかねねぇけな」
 俺は強い決意で、「ばってこのB界じゃあまりに酷い殺人事件は俺が許さねぇ」
 美穂ちゃんはにこっと微笑んで、「伯父さんお願いします」と頭を下げる。
 俺は左手でどんと胸を叩いて、「任しとき」

 俺はがらっと話題を変えて、「ところで美穂ちゃん、まだカミングアウトしてない俺の秘密知りたい?」
 美穂ちゃんは俺の左腕を掴んで、「知りたい知りたい教えて」
「じゃ美穂殿だけに特別に教えてしんぜよう」
「何、伯父さん?」と美穂ちゃんがくすっと笑う。
「美穂ちゃん、俺は実を言うと、どんな姿にでもなってこのB界に来ることが出来るんや」
「人間以外でも?」と美穂ちゃん。
「鳥でもね」と俺。
「鷹になって小倉から久留米まで飛んで行って、二階の美穂ちゃんの部屋のベランダの手すりに止まって、窓ガラスばコンコン突いて『美穂ちゃんおはよう』とか」
 美穂ちゃんはげんなりした顔で、「鳥が喋るなんて漫画の世界みたくて気持ち悪い。まだ人間の方がいい」
「ほんじゃ、B界の芸能人としての郷ひろみの存在ば消してその姿で来るとか」と俺。
 美穂ちゃん、「1回郷ひろみとデートしてみたい気はするけど、私にはおじさんの記憶がしっかり残ってるから違和感があり過ぎるぅ」
「じゃぁ若返って大学時代の俺で左足が義足じゃない俺は?」
 美穂ちゃんは笑顔で、「うん。だったらデートしたげる」
 俺はがくっと首を折って、「今のままの俺じゃやっぱダメかぁ」
 美穂ちゃんは申し訳なさそうに、「あまりにも歳が離れ過ぎとるもん」
「パパって呼んでしまいそう」
 美穂ちゃんが笑いを堪える。
「分かった。ほんじゃぁ今度はその姿で美穂ちゃんに会いに来るわ」と俺。
「うん約束よ」と美穂ちゃんは満面の笑顔。
「でも」と美穂ちゃんは口に指を当てて、「歳が同じなのに伯父さんとは呼べないよねぇ」
 俺は軽く、「大悟っち呼び捨てにすればいいやん」
「そうやね。同い歳やし」と美穂ちゃんが頷く。

 

 2020年3月23日・2020年10月23日・2024年4月11日修正